― 139 ―― 139 ―「果たして各種の色漆が氏の目的通り完全に発明さるゝに至らバ斯道の為に一新発明たるハ勿論之を建築装飾等の材料に使用し得るに至らバ不朽質繪畫の目的を達せるに□□からん」(注6)「不朽質絵画」とは今日耳慣れない言葉であるが、字義は「朽ちない絵画」を示すものだろう。建築装飾に色漆を用いることで「不朽質絵画」が実現するとは、一読して因果関係が不明であるが、この「不朽質絵画」なる言葉が、前年に陶磁史学者塩田力蔵が発表した論説に由来すると考えれば、その意図が明らかになる。1901年2月4日の東京日日新聞において塩田力蔵は、「紀念美術館」建設の話題に言及し、今後は日光や湿気に強く、劣化しない工芸素材による絵画、すなわち「不朽質絵画」による壁画が必要であると述べた。塩田は「繪畫製作の実技の如何に簡易なるを以てするも、猶ほ且つ其工藝的手法たるを脱し得ざる」ことを理由に、「純正美術」という概念そのものの破綻を指摘し、同時代の陶芸界で可能になった大作陶板や新色顔料の例を挙げつつ、油絵具などの既存の画材を工芸素材に代えることを求めた。塩田の論は独自の芸術観と、工芸素材の進歩、工芸素材特有の耐久性によって絵画の大前提の見直しを図るものであった。記事が紙上に掲載されたのは1日のみながら、塩田が同年の『大日本窯業協會雑誌』(103号)、後の著書『陶磁工藝の研究』(1927年)などで同論を繰り返し主張したことで、後年まで広く知られることとなる。工芸素材で日本画や油絵を模した作品を制作すること自体は、明治初期より刺繡絵画や七宝額などに先例がある。しかし、それらが工芸素材で絵画独特の筆致やぼかしを再現してその技巧の高さを示す性格を持ったのに対し、塩田の提案は、分類への疑義に基づき、工芸素材特有の高い耐久性をもって既存画材にとってかわることを企図したもので、工芸素材独自の特質と潜在力に注目した点で画期的であった。先述の取材記事が「不朽質絵画」という言葉を用い、建築装飾に言及することから、紫水が塩田の論をふまえていたことは疑いない。塩田の論は陶器画の話であったとはいえ、新色顔料の開発などの話題は紫水らの試みと重なるものであったし、塩田は日本美術院に創立より正員として参加しており(注7)、同じく正員の紫水と交友があった。紫水や完山に取材してその開発を不朽質絵画と結びつけて語る記事は他にもみられ(注8)、紫水が日本美術院という場で塩田に影響を受け、漆素材の可能性を考える機会を得たことがうかがいしれる。
元のページ ../index.html#151