― 140 ―― 140 ―紫水の色漆の開発は、画家としての素養、既存の漆芸界への不満をもとに、漆絵制作をめざして始められた。後に鮮やかな新色漆を実現し、美術展覧会へ漆絵を出品したことは、紫水に絵画/工芸の分類への疑義を抱かせただろう。また、紫水が塩田の不朽質絵画論に影響されていることは、紫水の漆芸絵画論もまた、漆を既存画材の代用品ではなく、これに対抗し凌駕するものとして位置づけるべく構想されたことを示唆している。新色漆による漆絵を実現した紫水だが、まもなく1904年に岡倉覚三に随行して渡米し、日進塗料工場の活動は中断をみた。晩年の回顧文には、開発からまもなく技術盗用を吹聴され、日本漆工会では色漆板が「まるでペンキ絵の様だ」と非難されたことが述べられ、これらが中断の一因であったと思われる。紫水同窓の磯矢完山や石井士口らは色漆作品や漆絵の制作をしばらく続けたようだが〔図4〕、1908年に帰国した紫水は、色漆作品からは離れることとなった。3.明治大正期の漆芸界─「描ける漆芸家」の登場色漆作品の制作は続かなかった一方、新色漆の成功と挫折を経て、紫水の漆芸絵画論は一層の発展を見せた。漆の新たな可能性を開拓したことで、漆芸の不遇への不満は大きくなり、後にこれは旧態依然とした同時代の漆芸界へと向けられた。「従つて漆工藝の振興は、この無自覺から覺醒し、所謂職人仕事に止まらず、眞の藝術家の手にその眞価の發揮を企圖されねばならぬ。(中略)而して漆液に對する専門家の研究は近時大に進捗して、各種の色彩を出し得るやうになつてきたのであるから、之を繪筆によつて自由に描畫し、藝術的興趣を十分に發揮する人を要求するのである。(中略)今は決してさる技巧を念とする時ではない。何等の拘束なく自由に、恰も繪畫を制作する如くあるべきものである。」(注9)1917年、紫水は従来の漆芸を「無自覚」な「職人仕事」と断じた上で、今後の漆芸制作は「絵画を制作する如く」あるべきという。紫水の論は一見突飛な発展を見せたようにみえる。しかし、漆芸制作を絵画制作と重ねる主張は、当時の漆芸界の風潮と重なるものであった。先に近代以前の漆芸と絵画の関係について確認すれば、近代以前の漆芸は分業によって制作されていたといわれ、絵画や図案は必ずしも蒔絵師や塗師が手掛けるべき
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