― 141 ―― 141 ―領域ではなかった。江戸初期のさまざまな身分、職業を解説した書物として知られる『人倫訓蒙図彙』(1690年)(注10)を確認してみれば、「蒔絵師」の項には「指物乃下地師別にあつて是を木地師といふ」、「下絵畫外にあり」とあり、木地、金粉や切金のほか、下絵の準備などの工程は異なる職人が担ったことが記される。また、平安時代後期から江戸時代の宮廷や権力者周辺の蒔絵制作において、権力者御用の絵師が蒔絵の下絵制作を手掛けた例は多数知られ(注11)、一級品の蒔絵制作の場においてもそれは同じであったことがうかがえる。近代随一の技巧派として知られる白山松哉も、画家による図案を自ら蒔絵制作用の線画に直すことができなかったことを教え子の紫水が回顧していた(注12)。近代以降も続いた分業制作は、明治期に工芸品の意匠改良が叫ばれるようになると、次第に問題視されるようになった。例えば、漆芸家、研究者、漆器商が集う団体である日本漆工会では、1901年に前田健次郎(香雪)が漆と油絵具の類似を指摘した上で、「油繪と蒔繪は一である」ゆえに「蒔繪に巧みな人は繪も巧みである」といい、図案から技法までを一貫して制作する重要性を述べている(注13)。また、近藤(辻村)松華は1905年に漆芸意匠の不振の原因を図案と技術の分業に求めており(注14)、技術の専門家としての漆芸家のありかたが批判された。1901年の前田健次郎は「近頃は青年の方々は各々絵を画かれ殊に図案も銘々に御描きの様子である」(注15)と述べており、この発言から漆芸家の絵画修錬や図案作成能力は世代によって差があったこと、この時転換期が訪れていたことが推察される。なによりこの時期は、漆芸界に美術学校を卒業した作家が登場した時期であった。1889年開校の東京美術学校は美術工芸科に漆工部を置き、1895年には京都市美術工芸学校に漆工科が開設され、それまで工房における徒弟教育により教授されてきた漆芸は、学校に教育の場を持つこととなった。それまでの漆芸家が、早くは10代の前半から工房の徒弟となって技術を学んだのに対し、美術学校では20歳前後の学生が美術史や絵画を修めながら漆芸を学んだ。寡黙な職人たちとは異なり、知識人である彼らは、図案集の発行や批評などを通して漆芸界に台頭するようになる。新世代の漆芸家ともいうべき彼らの登場は、漆芸界に変化をもたらすこととなった。時代は下るが、1919年に『日本漆工会雑誌』に載せられた臥牛生なる人物による文章「師匠と先生」、佐藤紫外「弟子と学生」(注16)は、徒弟制/学校教育の中で育つ近代漆芸家のありかたを対比して批判するものとして興味深い。これらによれば、美術学校は「地方工業学校の漆工科教員を養成する所」であり、
元のページ ../index.html#153