― 142 ―― 142 ―「社会と没交渉」。教員は時間に余裕があり、「自営者よりも多く知ることが出来るので、物知りであると自惚れるようになる、(中略)所が此間に、自分の本職の練磨を忘れて居るので、技術は退歩し却りて自営者より軽蔑されることゝなる」。「自営の出来ない、又師匠たることの能はざるの人」という人もあるという。対して、自営の漆芸家は徒弟を取っても「放任主義で真面目でない」教え方で、弟子は小僧と呼ばれ、子守や炊事に従事させられる。本を読めば「職人には学問の必要がないと、本を取り上げられることもある」。腕を磨いて他へ職工として雇われれば、「弟子上りやと云て賃銭が特に安い」。おそらく自営の漆芸家側から執筆されたこの文章は、学校教育によってもたらされた若い漆芸家たちの分断を雄弁に物語る。ここで語られるのは、技巧を重視し、学問を不要と見なす職人的価値観に縛られて苦難を味わう自営の漆芸家と、エリートとして官職を得るも技術が低いと揶揄される美術学校の漆芸家の姿である。学校出の漆芸家は技術が低いというイメージは大正期には定着していたようで、1919年に東京美術学校を卒業した松田権六も、卒業直後は「世間は美術学校を出たなんていうと、だれも技術のほうは信用してくれない時代であった」(注17)と回顧する。後に「官学出の元老株」と称された紫水も、1927年に「要するに技術の人ではありません」(注18)と揶揄されているように、長くこの問題に悩まされたようだ。明治期は意匠改良の課題から、技術の専門家としての漆芸家のありかたが批判され、漆芸家の絵画修錬が提唱された時代であった。漆芸界への学校教育の導入を背景にあらわれた「描ける漆芸家」は、漆芸界のエリートであった一方、旧来の職人的価値観、技巧主義のもとでは認められがたい存在であったといえる。これをふまえれば、先の紫水の主張は、「描ける漆芸家」の先駆者としての自身の立場と苦難を背景としたものであったことが明らかである。絵画修錬の経験によって技巧偏重に対抗し、図案から制作までを一貫して行う作家の矜持が、「絵画を制作する如く」という言葉にみてとれる。明治期には少数派であった「描ける漆芸家」だが、1911年にはこれを増やすべく、日本漆工会内に「絵画研究会」が立ち上げられた。これは漆芸家赤塚自得が「永い年月唱え来つて居ます意匠図案の改良に裨益せんとの為」に企画したもので、発足に先立っては前年に自得より提案講演があり、六角紫水、三木栄が賛成演説を行って役員会の承認が得られた(注19)。1911年9月には洋画家小山正太郎が招聘されて「工藝
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