鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 143 ―― 143 ―家として修養の寫生速成術」と題した講義が開催され(注20)、図案制作における初歩としての写生法が講じられた。赤塚自得(1871-1936)は、10代より東京で漆芸を家業とする父に漆芸を学んだ「学校出」ではない作家であるが、狩野久信、寺崎広業に日本画を、1912年には白馬会絵画研究所で洋画を学ぶなど、自主的に絵画修錬に力を入れていた。研究会は、後進に絵画教育の機会を与えるべく企図されたが、自得はその発足に際し、絵画修練の意義をこう述べていた。「即ち作品は其の人々の志想が形ちと成て現はれたものでなければならない譯であります、(中略)先づ藝術上の素養を作る其の第一着として繪畫の研究を始めたら宜らうと思います、そこで先づ差當り此常會毎に誰れか適當な指導者を頼んで繪畫研究の道を啓き、其の第一歩として最も正しき寫生法を研究するが善いと信じます、即ち實寫の研究の重なる時に自ら寫生は寫意の域に至り、遂に各自の志想を自由に表現し得らるゝ所の手段となるのでございます」(注21)自得は作品には作者の思想が表れるべきと考え、その手段として絵画修錬を推奨した。自得は金を多用した作品を「卑しい」といい、「徒に金粉の光に依頼せず、各自内に潜む所の精神に鞭撻を加へ練磨を加へ、以て之が光輝を放たしめんとする」ことを求める。ここでも、絵画修錬は技巧や豪華さを競う前時代の漆芸からの脱却の手段と見なされ、さらには作者の内面表現への一歩と見なされたのである。絵画研究会は定期開催を予定したものの、確認する限りでは継続はされず、一度きりの開催となった。しかし、日本漆工会が学校出の漆芸家だけでなく、自営の漆芸家、漆器商や研究者が広く集う会であったことを考えれば、絵画研究会の成立自体に、この時期の漆芸界の転換をみてとれよう。六角紫水、赤塚自得ら明治期の作家意識の強い漆芸家にとって、絵画修錬とは既存の漆芸界の技巧主義に対抗し、それらと自らを差異化するための手段であった。そして、これは学校教育の導入、作家の内面表出を重視する近代美術観の移入に伴う価値観の変化を背景とした。加えて、紫水にとって「絵画」と漆の関係を比較することは、漆固有の優れた性質と歴史を探求することともなったのである。漆芸界の絵画憧憬は、明治期という転換期を背景として起きた。1920年代になると、絵画憧憬は声高に語られなくなる。しかし、これは紫水らの試みが失敗に終わったこ

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