― 4 ―― 4 ―ラウェシ島)のマカッサルに寄港するルートでバタヴィア(現在のジャカルタ)に入り、同年9月12日にスラバヤ港から帰国の途についたことがわかった。日本が日中戦争の延長線上で、「資源の宝庫」と喧伝された蘭印に南進するわずか前の友好的な時代であった。インドネシアでの矢崎の様子は、同行したスジョヨノの手記に具体的に書き込まれている。そこに今回判明した動向を重ね合わせることで、手記に書かれた事柄の時間軸が明確になった。スジョヨノはつぶさに矢崎を観察していた。例えば、画になる場所を探すために、早朝からバタヴィア中を隈なく歩き廻り、しかもどんな日でも描きに出かける62歳の老画家の姿を次のように記している。 彼が描くことを止めるような雨も太陽も存在しなかった。(略)雨、水、風、霧、雲、太陽、さらには山の石を砕くダイナマイトの爆発さえ、花火で遊び続けてもいいよと言われた幸せな子どものように、彼はそれらを描いた。スジョヨノは若い自分が疲労困憊しているにもかかわらず、ひたすら歩き、切り取るだけで画になる風景を見つけ出し、描くことだけに没頭する幸せそうな矢崎の作画姿勢に、初めは戸惑いながらも、彼の芸術に対する真情に感銘を受ける。よって「これが矢崎だ。これが日本の近代だ。そして、私の先生だ」と明言した(注21)。個展に関しても(注22)、驚きを隠せない。280点という膨大な出品数、安価な値段、会場を訪れたオランダ人が美しさに思わず声を上げる様子などを詳細に記述している。「爪ジャワ哇美術界に異常な刺激を与えている」と『爪哇日報』が報じた盛況ぶりを(注23)、スジョヨノは「オープニングから一週間で、作品たちは揚げバナナのようによく売れた」と表現した(注24)。併せて、何より矢崎の作品が印象派風であるにも拘らず、日本的なものを感じさせることに衝撃を受けたことを記している。オランダ統治下の当時のインドネシアでは、風景を穏やかにエキゾチックに理想化して描く絵画が人気を博していた(注25)。インドネシア人としての絵画表現を模索していたスジョヨノにとって、矢崎があるがままのインドネシアの光景を西洋画で描きながら、なおかつ日本的であることに心を揺り動かされた(注26)。晩年のスジョヨノと親しかったジム・スパンカット氏によると(注27)、1935年にスジョヨノが発表した作品は、当時の服装や市井の様子をそのまま描いたものであった。同時代の日常生活を描くということは、それまでインドネシアの絵画にはなかっ
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