鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 149 ―― 149 ―の須弥山図に鑑みると、区域Ⅱにおいて波や水棲生物といった大海の表象は見当たらないものの、阿修羅の足先を彫出しなかったのは、彼らが海水の中に立っていることをフリーア像の制作者が表現しようとしたと考えられる。また、こうした図像的特徴の典拠として挙げられているのは、比丘道略集と伝えられる『雑譬喩経』の記す阿修羅に関する説話である(注5)。同説話(大正蔵巻4、526頁c(T4-526c)、以下略号)によれば、前世が貧乏人だった阿修羅は、深い河の激流に流されてしまい、所持品も何度もなくしたが、沙門と化した辟支佛に食を布施した功徳を以て、転生したら深い海水さえもがその膝に及んでいないほど長大な体躯を持つようになったという。なお、例の阿修羅像が成立した実態について考えると、阿修羅に関する種々の経説を収集した上で、それらをひとつにまとめて造形化を行うことが非常に困難であると考えられるため、フリーア像の制作者が同モティーフを彫出した際に、雲崗石窟における須弥山図と同様の図像配置を選択したとともに、『雑譬喩経』の当該説話に直接に依拠したのではなく、莫高窟における阿修羅像に似たような図像を手本として利用した可能性が浮上してくる。ただし、こうした図像が存在したならば、それらが西陲の敦煌から華北地域に流入してきたというよりも、もともと華北地域でも流行していたと考える方が妥当であろう。二 地上界における城須弥山のすぐ下の区域Ⅲ〔図5〕においては、画面の中央に複数の門闕に取り囲まれる宮殿風の高い建築が彫出されて、城を表すモティーフにほかならない。この城の向かって左には奔馬に乗って外へ出かけていく人物が三人も表現されているが、右下には画面の中央に向かっている騎馬人物がたった一人彫出されている。こうした図像の内容については、ハワード、李玉珉両氏はそれを仏伝文献の記すブッダの生涯の重要な事蹟のひとつである四門出遊に比定している(注6)。しかしながら、同エピソードを表現する作例に必ずある、悉達太子だったときのブッダが居所の迦維羅衛(カピラ城)の東西南北の四門では老人、病人、死人、沙門とそれぞれ対面した、という最も肝心な場面を彫出していないため、上記の図像を四門出遊に比定するのは困難である。また、李静傑氏は例の城を東晋(317~420)の仏駄跋陀羅訳『六十華厳』「盧舎那仏品」の記す焔光と呼ばれる大城に比定している(注7)。しかしながら、同品に「有須弥山、名大焔華荘厳幢…彼須弥山有林観、名宝華枝…於彼林東有一大城、名曰焔光

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