鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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(T9-416c)」とあるように、大焔華荘厳幢という須弥山の林観の東に所在するとされる焔光は、例の城のフリーア像における配置箇所とは合致しない。― 150 ―― 150 ―一方、執筆者が特に注目したいのは、例の城を須弥山のすぐ下に配置したのはどのような発想によるのか、という先行研究では従来看過されてきた点である。この問題を考える上での参考作例としては、北周(556~581)期の制作とされる敦煌莫高窟第428窟南壁の法界仏像〔図6〕が挙げられる。この像では、地上界は須弥山の麓を囲繞して展開するような形で表現されて、さらに人間や畜生などの衆生が描出されている。しかも、これらモティーフの地上界における分布から看取されるのは、仏教尊の序列上での地位が高ければ高いほど、より須弥山寄りに配置されるという傾向である(注8)。すなわち、鳥獣や合歓の男女を大衣の下端に描いているのに対して、頭光を持つ聖者とされる人物(注9)を須弥山麓の向かって右に描いている。そして、このような図像配置の仕方に鑑みると、フリーア像では、地上界を構成するモティーフが多く存在するにもかかわらず、例の城のみを須弥山のすぐ下方に配置したことから、それをこそ極めて重要な地位を占めるべきものと同像の制作者が考えていたことが想定される。では、例の城を一体どのように捉えればよいのか。仏教文献に説かれる地上界の諸城を列挙するとしたら、その筆頭に挙げられるべきなのは、前にも触れた迦維羅衛である。この地について、後漢(25~220)の竺大力・康孟詳訳と伝えられる漢語仏伝『修行本起経』「変現品」には、能仁菩薩…期運之至、当下作仏、於兜術天上、興四種観、観視土地、觀視父母、生何国中、教化之宜先当度誰…迦夷衛者、三千日月万二千天地之中央也、過去来今諸仏、皆生此地(T3-463a)。とあって、兜術天(兜率天)上の能仁(釈迦)菩薩は、地上界に降誕していく前に四種の項目に対する観察を行っており、そして迦夷衛(迦維羅衛)に生まれるのを決めたことが語られている。特に注目すべきは、この地が三千大千世界の中央とされて、過去、未来、現在の三世の諸仏の生誕地としても説かれることである。また、三国・呉(222~280)の支謙訳と伝えられる『瑞応本起経』には、迦維羅衛者、三千日月万二千天地之中央也、仏之威神、至尊至重、不可生辺地、地為傾邪、故処其中、周化十方、往古諸仏興、皆出於此(T3-473b)。

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