鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 152 ―― 152 ―このことを考えると、それらを雲馬王が商人を羅刹から救ったというブッダの前生説話(雲馬王譚)に原型を持つと考えられる上記の馬王に比定するのは、いささか性急すぎる。また、ハワード氏は区域Ⅳにおける正面向きの馬を、人間の愛欲の象徴(the emblem of human passion)としている(注14)。これは、煩悩や情欲の喩えとして用いられるという仏教文献における馬に対する否定的な見解と合致する。氏は、正面向きの馬のフリーア像における配置箇所を考慮に入れて、同モティーフをこの像の大衣前面に展開される衆生が輪廻転生を繰り返す世界の中央部に配置したのは、それが輪廻を招致する愛欲の象徴だからであろう、と推測している。しかしながら、前述したとおり、正面向きの馬はフリーア像と伝高寒寺石仏のいずれでも仏塔及び宝珠とともに当該区域において中軸線上のモティーフとなっており、このことを考えると、同モティーフは人間の愛欲を象徴するものとされているにもかかわらず、聖なるものである仏塔や宝珠と同列に扱われることには若干違和感を覚える。一方、執筆者が特に注目したいのは、フリーア像とは異なり、伝高寒寺石仏の制作者が正面向きの馬を、同像の大衣前面に展開される仏教的世界の中央部ではなく、そこよりさらに下方に彫出された、区切られた区域の間の境界線となる曲線のすぐ下に配置したことである。しかも、体躯の輪郭が朱色の線で明瞭に描出された前掲莫高窟第428窟の法界仏像の肉体表現に鑑みると、この位置が伝高寒寺石仏の恥丘部のすぐ下に相当することは間違いない。そして、フリーア像を側面から撮った写真〔図8〕で確認したところ、正面向きの馬が同像において膨らんだ下腹部の最下端(執筆者が加えた矢印の指すところ)、すなわち恥丘部の辺りにあたる位置に配置されていることが認められる。このように、これら正面向きの馬は、一見上記の法界仏像に展開される仏教的世界における配置部位が異なるにもかかわらず、実際は各作例において同様の位置に彫出されていることがわかる。そして、この位置は、男性の場合、両足の間に収まる身根の所在にほかならない(注15)。一方、陰馬蔵あるいは馬陰蔵と呼ばれる如来の身根は、如来のすぐれた身体的特徴である三十二相のうちのひとつとして説かれて、体内に隠されて見えないものとされている(注16)。興味深いのは、森雅秀氏が指摘しているように、「陰馬蔵」のサンスクリット、パーリ原語のいずれにおいても「馬」を表す言葉がないことである(注17)。さらに、氏は、この訳語において「馬」が用いられるのは、漢訳者の独自の発想ではなく、もともと牡馬の性器が持つ巨大さというイメージを如来の身根が含んで

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