鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 153 ―― 153 ―いたためであろう、と推測している。また、中国では身根の表現された如来像がほとんど確認されておらず、これは上記の陰馬蔵に対する認識の影響を受けたものと考えられる。しかしながら、特に注目すべきは、北朝期における禅観や造像活動といった仏教の実践に多大な影響を与えていた、東晋の仏陀跋陀羅訳と伝えられる『観仏三昧海経』における「観馬王蔵品」では、愛欲に耽る婬女たちを教化するために、ブッダが諸女に愛欲が不浄であることを説いた際に身根を現出させたというエピソードが語られていることである。「観馬王蔵品」では、婬女たちを教化するために、ブッダによる身根の示現は三度行われていたとされる。まず、一度目の示現の様子について、同品に「如来爾時化作一象、如転輪聖王象宝、時象脚間出一白華、猶如象支(T15-684c)」と記されている。象の足間から出た白華は、その性器を暗喩するものにほかならない。ついで、二度目について、「仏復化作一馬王像、出馬王藏、如瑠璃筒、下垂至膝(T15-684c)」、とブッダが馬王を化作して馬王蔵すなわちその性器を露出させたことが明記されている。ここで馬という動物は、ブッダによる身根の示現と結びつけられて、注目に値する。さらに、三度目について、当該記述(T15-685a)によれば、ブッダが如来の姿のまま自らの陰馬蔵を現出させて、異口同音に偈を唱える無数の化仏を化現する大神変を起こしたことによって、婬女たちに愛欲が不浄であることを説き、それを捨てるべきことを認識させたという。正面向きの馬は、前述したとおり、説話性を帯びた図像要素が欠けている。そのため、それらを上記のエピソード自体を表現しようとしたものと捉えるのも無理がある。しかし一方で、以上の考察からわかるように、同モティーフは、馬という、ブッダの身根及びその示現と結びつけられた動物を表すモティーフである上、法界仏像において男性の身根の所在にあたるという特定の位置に配置されている。これらのことを考えると、それらは如来による陰馬藏の示現を示唆するものと見られる蓋然性が高いといえよう。そして、それならば、正面向きの馬は、人間の愛欲を象徴するものというよりも、『観仏三昧海経』に説かれる愛欲を捨てるべきというような観念の影響の下に成立したものと考える方が妥当であろう。なお、なぜ馬を正面観で彫出したのかという点について考えると、当該法界仏像の制作者が礼拝者や観察者の注意を喚起しようとする意図を持っていたためかもしれない。また、馬は側面観で表現されると、その足間に収まるべきものとしての意味合いが弱められることになるのも理由のひとつとして考えられる。

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