― 5 ―― 5 ―たことで、矢崎の影響を強く感じると語った。スジョヨノが、矢崎の影響を強く受けたパステル画を描いていることもわかった。中部ジャワのソロにあるドゥラー美術館(注28)で、スジョヨノの《バタヴィアの街》(Kota Batavia)〔図8〕他3点の風景画の熟覧を初めて行った。その結果、支持体の大きさ及び紙質、また使われているパステル絵具の色合いや質感が矢崎のものと酷似していることを確認した。作風も、手前部分を大きく取り、斜めの線を使った奥行きを感じさせる構図や、方向性や動きを示す点景の人物の入れ方、さらに樹々や雲、遠景の山容を少ない手数で表すパステルのタッチや輪郭線の描き方についても、矢崎の画法を踏襲していることが観察された。矢崎がインドネシアで描いた《山の街バンドン》〔図9〕と比べてみよう。手前に姿形の見えない影を描き、気配を感じさせるところも似ている。スジョヨノは1937年頃まで、日常の風景を題材にした同様のパステル画を描いていた形跡が残っており、矢崎に同行した影響が大きかったことが窺える。ただし、矢崎はパステル画には決まった描き方がないのがよいところだと言っているので、スジョヨノに画の描き方を教える気持ちは特になかったと考える。熱意を持った現地の若き画家にパステルを与え、数カ月間共に描いたことが、期せずして師という存在として位置づけられることとなったのであろう。4 おわりに今回の現地調査によって、大正11年(1922)のシンガポール滞在中に開催した個展が盛況であったという事象の背景、及び華人の学校への寄贈ルートが判明したことによって、矢崎が自任した「民衆芸術家」という使命と、その後の活動との関連性が浮かび上がってきた。この時の経験が、世界各地で現地の人々と交流しながら開催する個展スタイルの基盤になったと考えられる。インドネシアでは新出のスジョヨノのパステル画によって、思想的にだけでなく矢崎の画法を踏襲した時期があったことがわかり、美術界のリーダーとなっていくスジョヨノが、矢崎に深く私淑していたことが明らかになった。間接的ではあるが、東南アジアの近代絵画史において、矢崎が果たした役割と位置づけてよいだろう。関連して、『爪哇日報』の記事からバタヴィアでもパステル画会が発足していたことがわかった。20余名の会員は邦人だけでなく、5、6名の現地の人々も含まれており、その中に矢崎に画才を見いだされた10歳の少年がいた。後に主要な画家となるカルトノ・ユドクスモ(1924~1957)であると判断される(注29)。シンガポールでは、
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