― 161 ―― 161 ―一、重帳帷(障風)、二、金剪刀(剪折)、三、甘泉(浸)、四、玉缸(貯)、五、雕文台座(安置)、六、画図、七、翻曲、八、美醑(賞)、九、新詩(咏)。」六番目に数える「玉缸」が、白磁の甕を指しており、当時に花を大き目の磁器に生けてあることが分かる。ただし、花器に生ける花の種類がまだ少なく、主に蘭蕙梅蓮のような古くから重んじられる花材に限られ、山野に生える草花が相応しくないと考えられていた。唐時代において、花器の可能性のある器の種類が段々増えてきた。伝統の金属器の他には、白磁や唐三彩などの陶磁器もみられ、器形は、金属器の写しが多い。唐三彩は、日本において主に明器だと考えられがちだが、近年の考古発掘からは、生活用品と思われる器物も出土されたので、中唐以降、唐三彩の中では、日常生活における道具も作られるようになってきたという説が既に中国の学界でなされている(注13)。唐が滅んでから、半世紀の間に戦乱が続き、この時期は「五代十国」と呼ばれる。五代の挿花について、10世紀の文人陶穀(とうこく)の随筆『清異録』(注14)という書籍の中に記載がある。「李後主毎春盛時、梁棟窓壁柱拱階砌並作隔筒、密挿雑花、榜曰錦洞天。」という一節は、「李後主毎春盛時、梁棟窓壁柱拱階砌並作隔筒、密挿雑花、榜曰錦洞天。」との一節は、南唐王朝の最後の国主である李煜、即ち李後主は、毎年仲春の頃に、天井、窓際、壁、柱、階段など至る所に隔筒(いくつかの口があり、色々な花を挿す竹筒)を掛け、花を入れ、題榜をかかげて錦洞天と呼ぶという逸話が書かれている。この記載の中で登場してきた竹筒は、明らかに花器として使用されており、臨時的な道具に過ぎないが、中国における竹筒花器の最古の記録と言えるだろう。このような一か所に複数の花器を使い、花を飾るという行いは、宋時代の挿花文化にも影響を与えた。宋時代に入ると、「士大夫」に代表される新興地主階級が政治、社会、文化を支え、儒教では性理学(注15)が盛んになり、性即理説が禅宗思想と融合し、人間の本性が即ち天理であるという理論から、「即心即仏」の境地が開かれる。そこで、宗教は段々と日常生活の中へ溶け込み、社会各階層の生活に大いに影響をもたらすことになる。このような思想の傾向に相俟って、知識層における美意識も変化が生じる。唐時代に比べると、より一層内面性が重んじられ、個々人の心情と好みが主張されるようになる。南宋の儒学者・官僚である陸象山(1139年-1192年)曰く、「芸即是道、道即是芸。」(注16) 遊芸は単なる遊びではなく、必ず道に從い、また道を表すのである。この時
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