鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 162 ―― 162 ―代には、科挙制によって官吏になる文人階級は出身と関係なく學問、識見が備わり、教養に富んでいる。彼らは以前の門閥貴族より自己の個性を尊重し、厳しい礼法より風流な嗜みを好む。この考え方は宋代の挿花文化に非常に大きな影響を与える。当時の文人たちが花を人に見立て、その中に徳性を認めて憧憬の情を表し、また風雅の友とし、花との交流を通じて自己の品性を養い、また自我意識を確認する。このような風潮がやがて士大夫階層から広がり、社会全体におけるブームになっていく。一方、資源の開発と技術の革新が進み、各地の特産品が生まれて地域分業が行われ、流通経済が発展した。花もその中の商品の一つとして、栽培技術の向上と伴い、全国各地の市場に進出していく。宋代挿花の芸風は唐の華やかな大型挿花を継承する一方、個々人の心情を重んじて、前代に重視されなかった山野の草花も花材として認めるようになってきた。宮廷において、歴代皇帝は前朝同様に挿花を重視し、毎年に洛陽から牡丹を献上するように勅命を下している。一方、民間では、知識層が花を愛でながら、花器の鑑賞をも行い、骨董品で花を生け、作品の格調を求めている。このような風潮が世の中に広がり、各地の窯元が競って新しい陶磁器を作り、花器に補う。その他、藤材と竹材の花籠なども花器として用いられ、工芸技術の面においてかなり進んでいる。尚、寺院などの宗教場所においても常に花を飾り、挿花の風習が一層高まっていくのである。北宋時代の著名人欧陽脩が『洛陽牡丹記』(注17)の中に、「洛陽至東京六驛、歲遣牙校一員、乘驛馬、一日一夕至京師。所進不過姚黄魏花三數朶、以菜葉實竹籠子藉覆之、使馬上不動搖。以蝋封花蒂、數日不落。」と述べ、洛陽から東京(今の開封)まで六つの駅があり、毎年に一人の官員を派遣し、駅の馬に乗り、一昼夜をかけて京に行く。献上する花は最上級の牡丹二、三房しかないが、新鮮な野菜葉片を竹籠に詰めて、馬上に揺れないように工夫する。蝋を用いて花のねもとを封じ、数日を経ても落ちない、と記している。この記載は宮中に献上する花のことだが、当時における陸路の運搬手段の一端が垣間見える。また、北宋末期の都・汴京(今の河南省開封市)には、花が商品の一つとして販売される記載がみられる。北宋末期の文人孟元老の書いた『東京夢華録』(注18)には、「是月季春、萬花爛漫、牡丹、芍藥、棣棠、木香、種種上市。賣花者以馬頭竹籃鋪排、歌叫之聲、清奇可聽。」とあり、既に晩春の月になり、百花繚乱と咲き誇る。牡丹、芍薬、山吹、木香薔薇など、色々販売し始める。花売りが馬頭の付いた竹籠で花を並べ、人々に呼びかける。その歌声が美しくて聞くに値する。絵巻「清明上河図」には、該当する場面が見られる〔図1〕。

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