― 163 ―― 163 ―都だけではなく、地方においても、花を特産品として販売されていた。北宋晩期の張邦基が『墨荘漫録』(注19)という随筆集を書き、「閩廣多異花、(中略)而末利花為衆花之冠。(中略)今閩人以陶盎種之、轉海而來、浙中人家以為嘉玩。」と述べるが、福建及び広東地方には珍しい花が多く成長しており、中には茉莉花が最上とする。今、福建の人が陶器の小壺でその花を植えて、海を渡って運んでくる。浙江当たりの人がそれを良いものとして愛玩することが分かる。同書には、続いてすぐ次の文言が綴られ、「然而性不耐寒、極難愛護、經霜雪而多死、亦土地之異宜也。」顏博文(中略)愛而賦詩云:銅瓶汲清泚、聊復為子勤」とあり、茉莉花が寒さに耐えられず、養護するのが極めて難しい。霜や雪で枯れることが多く、これもまた地方によって風土が違うためである。顔博文が漢詩を書いて、中に、銅瓶で清い水を汲み、花のために勤める、と記している。ところが、挿花という行いに対して、社会各階層は求めるものが異なる。宮中においては、挿花を威厳と儀礼の一つと見做し、南宋後期の周密が書いた『乾淳起居注』には、次の文言が見られる。「淳熙六年、太上太后幸聚景園賞牡丹。剪好色樣者千朵、安置花架皆是水晶及天晴汝窯金瓶。」とあり、淳煕六年(1179年)、太上皇帝と皇太后が聚景園に行幸し、牡丹を観賞する。色が綺麗なものを千朶を切り、置く花棚が全て水晶及び天青汝窯の金瓶である。原文の「晴」が「青」の借字で、「金瓶」というのは、従来の解釈では銅瓶といわれてきたが、欧陽脩が『帰田集』の中に汝窯磁器について「粉翠胎金潔」と賞賛したことから、恐らく汝窯の磁器を指す、と筆者は考える。周密はまた『乾淳歳時記』の中に、宮中花見の様子を詳しく書いているが、「禁中賞花非一、(中略)至於鐘美堂、大花為極盛。堂前三面皆以花石為臺、各植名品。(中略)堂内左右各列三層、雕花彩檻、護以彩色牡丹畫衣。間列碾玉、水晶、金壺及大食玻璃、官窯等瓶、各簪奇品、如姚魏、御衣黄、照殿紅之類幾千朵。至於梁棟窗戶間、亦以湘筒貯花、鱗次簇插、何啻萬朵。」とある。宮中の観賞花は一種類に限らない。(略)鐘美堂に至っては、大きな花が極めて美しい。建物の前に三面に渡り花と石を以て台をなし、各々名品を植える。(略)堂内には左右それぞれ三段に分け、花文様を彫った加彩盆器を廻らせ、彩った牡丹文様の衣を以て覆う。その間に玉、水晶、金属および西域ガラス、官窯の花瓶を並べ、色々な珍しい牡丹を入れる。例えば姚魏、御衣黄、照殿紅等の種類があり、数が何千朶に及ぶ。梁と窓の間にも竹筒で花を挿し、花束を生けて、総数が萬に超える。民間においては、上流社会から庶民階級まで、慶弔宴会の際に専門の準備機構「四司六局」が設けられ、中に花を生ける部署がある。南宋晩期の呉自牧が『夢梁録』(注
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