注⑴黄永川『中国挿花史研究』西泠印社出版社、2012年― 166 ―― 166 ―属器に比べると、まだ骨董品としての価値が低い。また、器形についても、後世のような細かい分類がまだできておらず、鶴首のような長頸瓶から口の小さい小壺形の花瓶、ないし玉壺春などすべてが「胆瓶」と呼べていた。最後に、宋時代において、花盤という種類の花器が注目されなくなるが、恐らくこの器形が仏教と関係が深く、仏に花を供える時に多く使用されるのと、狭い室内空間において花瓶に比べると使いにくいところから、段々と日常生活から遠ざかっていったのではないか。余談になるが、日本における生け花文化の始まりが、明確な記載がなかなか見つからない。籠に関する記述は『万葉集』 の中から既に出ているが、花器として使用されるのは、やはり佛教が伝来してからのことであろう。奈良・平安時代では、日本が積極的に大陸の先進文化を吸収し、日中両国の文化交流が盛んに行われていた。遣隋使・遣唐使は佛教を中国から招来すると同時に、佛教の供花も一緒に伝えてきた。宗教儀礼としての供花以外に、平安時代の宮廷では、すでに花を花器に入れて観賞する風習があったと考えられる。9世紀に、太政大臣藤原良房の書いた和歌の中に、「花瓶」という語彙が見られる 。10世紀に入ると、清少納言が『枕草子』第四段に「おもしろく咲きたる桜をながく折りて、おほきなる瓶にさしたるこそ、をかしけれ」と書いており、また第二十三段に清涼殿の「勾欄のもとにあをき瓶のあほきなるをすゑて、桜のいみじうおもしろき枝の五尺ばかりなるを、いと多くさしたれば、勾欄の外まで咲きこぼれたる…」と書いてある。良房の歌の中の「花瓶」は「はながめ」と読み、また「おほきなる瓶」「あをき瓶のあほきなるを」などの描写からみると、当時に宮中で用いられた花器がかなり大きいものだと推測できる。恐らく平安時代の挿花は、かなり大ぶりなものだったであろう。これも唐から北宋にかけての宮廷挿花の作風と合致しており、また当時の日本における寝殿造りの広やかな室内空間にふさわしいからである。中世になると、長らく中国に滞在した帰国僧たちが日本に請来した挿花の風習は、寺院における供花だけではなく、宋元時代の文人趣味の挿花をも含んでいると考えられる。鎌倉時代末期から室町時代前期にかけて、五山寺院の禅僧たちが多くの漢文作品を著した。これらの作品からみると、中国の文人趣味が日本の知識層に影響を与えることが窺える。
元のページ ../index.html#178