鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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注⑴スジョヨノ(S.Sudjojono)は、1938年にインドネシアで最初の美術団体のひとつであるプルサ⑶S. Sudjojono, Cerita tentang Saya dan Orang -orang Sekitar Saya(私と私の周囲の人々についての― 6 ―― 6 ―東京のパステル画会と合同の展覧会が開催され、さらには現地でパステル製造を始めようかという話まで持ち上がるほど、外地の暮らしに積極的にパステル画を取り込もうとした様子が垣間見えた。また、矢崎は帰国後、第15回帝展に《ジャワ》〔図10〕を出品し(注30)、翌年1月から「ジャワ風景画展覧会」と銘打ち、東京、神戸で個展を開催している(注31)。ジャワの踊りやボロブドゥール、プランバナンの遺跡、集落や街の人々の様子など、インドネシアの様々な風物を描いた作品が会場を賑わした。これらの展覧会は、単なる作品展というだけではなく、バタヴィアの邦人たちの大きな期待が寄せられたものであった。『爪哇日報』は、「内地では芸術から爪哇紹介」という見出しを付け「初めて日本国内で行われる爪哇の芸術的紹介であり、深い意義がある」と報じている(注32)。矢崎はインドネシアを描いたパステル画によって、本国から遠く離れた人々と祖国を架橋する役割をも「民衆芸術家」として、意識的に果たそうとしたのだと考えることは十分可能であろう。ギ(インドネシア画家連盟)を結成し、近代美術の道を開拓した。⑵横須賀美術館の所蔵のスクラップブックは全部で4冊あり、いずれも矢崎自身が作成したものと考えられる。本調査に関わる新聞記事等は最も先に作られたと思われる1冊に、美術学校時代の写真や大幸館の卒業証書、自作品の写真等と共に貼られていた。物語)S. Sudjojono Center, 2017, pp. 39-43.⑷前掲注⑵のスクラップブックに貼られたシンガポールでの展覧会に関する一連の記事(『南洋日日新聞』1922年5月20日頃~6月10日頃の記事と推定)に、まず「(本展覧会開催に際し)民衆芸術家を以て任ずる画伯の主義をここに徹底的に現顕する」と記載があり、その後も「民衆芸術家」としての矢崎の言動が紹介されている。⑸第一次世界大戦(1914~1918)の影響により、欧州品の代替えとして日本品が東南アジア市場へ急速に浸透したことに伴い、シンガポールに日本人商人が大挙し、商店・商社を開設した。1913年に日本人学校が開校、1915年にシンガポール日本人会が発足するなど、シンガポールにおける日本人社会の急速な成長を示す出来事が相次いだ。また1920年には石原産業公司がジョホール州スリメダン鉱山の採鉱を開始した。矢崎が訪れた1922年のイギリス領マレー全土の在留日本人の数は6,405人である。社会情勢はシンガポールの人口の7割以上を占める華人の動向によって左右され、日本の対中国政策のあり方に応じて、何らかの排日運動が起こるのが普通であった。特に1919年「五・四運動」のときには、6月から始まり翌年4月まで日本商品のボイコットを実施しただけでなく、日本商品を扱う華人商店や日本人商店・家屋が襲撃された。翌年からは下火になっていったが、西村竹四郎『シンガポール三十五年』(東水社、1941年)の1922年の項には「反動の嵐に喘ぐ」という見出しで、「不況、労働者のストライキ、経済変

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