― 172 ―― 172 ―⑯渡辺始興の仏画制作に関する研究研 究 者:宮内庁三の丸尚蔵館 学芸室研究員 上 嶋 悟 史1、「始興の仏画」の可能性渡辺始興(1683-1755、通称求馬)は十八世紀の前半、京都で活躍した絵師である(注1)。岸派の絵師である白井華陽によると、始興は狩野派と琳派を学び、これらを融合することで独特の画境にいたったらしい(『画乗要略』)。たしかに始興の絵画からは、狩野派の作品、あるいは尾形光琳や尾形乾山による作品と共通する要素を見いだすことができる。しかし始興がいかなる狩野派の絵師に学んだのか、乾山らといかなる関係を築いていたのかは解明途上である。いっぽう、始興が近衞家𠘑や錦小路頼庸ら公家との関係のなかで「春日権現験記絵」や「八幡太郎絵詞」などの古絵巻を模写していたことも、その画業や人脈の形成過程における大きな要素である。始興による仏画制作として注目されるのが、泉涌寺蔵「諸天像」である。この「諸天像」二十二幅〔図1〕は泉涌寺の金光明懺法において懸用される仏画で、元代にさかのぼる図像をもつという旧本(現存しない)を江戸時代に模写したものである(注2)。この「諸天像」を納入する箱はもと旧本を納めていたものであり、その蓋裏には「元禄十五年十二月修補表褙」の墨書がある(注3)。明治二十二年に記された泉涌寺文書FM-655『泉涌寺什器帖』には「一、諸天像 廿二幅 但筆者渡邊求馬」とある。両記述を容れるならば、始興は弱冠十九歳にして「諸天像」を手がけたことになる。始興の若年における活動の様相が不明であるいま、そのようなことが可能かどうかの判断は保留したいが、「諸天像」は泉涌寺の儀礼における重要な尊像であるため、全く故なしとは思われない。狩野派を学んだ薩摩の絵師である木村探元が享保十九―二十年(1734-35)に上洛した折につけた日記(注4)からは、彼が始興と親しく交わった様子が読みとれる。享保二十年正月十一日の記事には、探元が泉涌寺山内法音院を訪ねたとき「始興がすでに方丈で待っていた」「始興は関白さま(近衞家久)の申し付けで来たと言っていた」「大仙和尚にもてなされ、餅汁や茶漬けをいただいたあと座敷を残らず拝見した」と記している。始興が泉涌寺と人的な関係を築いていたことが窺われる。泉涌寺は皇室の菩提寺であったから、こうした関係の背後には、始興が近衞家や禁裏の御用をつとめていたという事実が存在していよう。さらに、寛政八年(1796)五月に松平定信の命を受けて畿内の諸社寺什物調査に赴いた谷文晁の調査ノート『文晁過眼録』(注5)に注目したい。七月十三日、円山主
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