鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 173 ―― 173 ―水(応瑞)家において文晁は「摹八天像 泉涌寺 十八枚」を目睹している。これは円山派に保存された粉本を指すのであろう。応瑞の父である円山応挙の作品には始興への私淑の成果が看取されるほか、始興の画技への賛辞も残している(『画乗要略』)だけに、始興筆という伝承と何らかの関係性が考慮される。ここに記した泉涌寺蔵「諸天像」の事例は、始興が近衞家を介し、格式ある寺院における儀礼の核ともいうべき礼拝対象を制作しており、そしてそれが後世の画家の範となっていた可能性を示している。始興の画業形成や人脈形成、後世への影響という点において、仏画制作は絵巻模写に劣らぬ史的意義を備えている。2、立本寺「十六羅漢図」の概要と先行研究始興の仏画における基準として取り上げたいのが、京都市上京区に位置する日蓮宗本山・立本寺の本堂須弥壇後壁に貼られた紙本著色「十六羅漢図」〔図2。以下、立本寺本と略称する〕である。「延享丙寅冬 渡邊始興画」の落款〔図3〕を持ち、延享三年(1746)に描かれたことが明白である。須弥壇の安置される立本寺本堂は寛保三年(1743)に再建されており、立本寺本はその再建後に貼り付けられたものと考えられる。これまでの研究史において立本寺本は、幾度か言及されたことがある。土居次義氏は昭和八年(1933)刊『京都美術大観 絵画上』(東方書院)で立本寺本をはじめて紹介し、昭和四十七年(1972)刊『渡邊始興障壁画』(光村推古書院)のなかでより詳しく考証するとともに全図およびいくつかの部分拡大図を掲載した。土居氏は本堂建立当時の日厚上人が始興に制作を依頼したとするが根拠は薄弱である。また「画法は狩野家のそれを示」すという。さらに平成十七年(2005)、京都市文化市民局文化部文化財保護課が発行する『京都市の文化財』第二十三集において専論が示された。『京都市の文化財』は人物や松の表現に「松下寿老人図」(円光寺蔵)との類似を、岩塊の表現に「山水図押絵貼小屏風」(個人蔵)との類似を指摘した上で、かつて本法寺本堂の須弥壇後壁に貼り付けられていた元信落款の「十六羅漢図」四幅〔図4。以下、本法寺本と略称する〕から「モティーフの組み合わせ」や「大画面群像表現の構成法」を学んだとする。本法寺本と立本寺本のモティーフを比較すると、虎を侍らせる尊者や如意を執る尊者、あるいは画面左上方において岩塊と松樹に囲まれ草座に坐す白衣の老尊者など、共通点がたしかに指摘できる。しかし立本寺本に特徴的な、尊者の雲集や裁縫の場面は本法寺本に描かれず、いっぽうで本法寺本の右上方に描かれる韋駄天とこれに対し

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