鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 7 ―― 7 ―動の激烈、貨幣価値の不安等、従来の処世法が通用しない。医院も苦しい」と記載されている。(新嘉坡日本人倶楽部(石田忠治)編『赤道を行く(新嘉坡案内)』二里木書店、1939年、『南洋の五十年』南洋及日本人社、1937年、及び綾部恒雄・永積昭編『もっと知りたいシンガポール』弘文堂、1982年を参照)⑹『南洋日日新聞』は1914年創刊、発行部数は1800部。社長の古藤秀三は、シンガポール日本人会会長を務め、金子光晴など難渋している日本人の面倒をみた。⑺会期:1922年5月27日~6月6日(7日まで延長)、会場:北橋路(ノースブリッジ)日本人倶楽部、主催:南洋日日新聞社。⑻『南洋日日新聞』記事、前掲注⑷見出しは「矢崎画伯展覧会は明日迄 熱心なる支那人及び外人等の鑑賞者多く─画伯は肖像画の揮毫に多忙─」(支那の表記は原文のまま引用)⑼現地の英字新聞(The Straits Times、The Singapore Free Press)や中国語の新聞(『新國民日報』)にも本展覧会開会後、紹介記事が掲載された。⑽西原大輔『日本人のシンガポール体験』(人文書院、2017年、pp. 128-130)によると、ステレツはstreetsに由来する。ミドル路やヴィクトリア街一帯を指す言葉で、当地に移住して小規模な商工業に携わった日本人が住む下町のような性格の地域だった。一方グダンは、godownが語源である。これはインドや東南アジアでのみ通用する英語で倉庫を意味する。かつてラッフルズ・プレイスを中心としたシンガポール川河口付近には倉庫が多かったため、この様によばれるようになったものである。グダンは、三井物産、三菱商事、日本郵船、横浜正金銀行などの大企業エリート駐在員が勤務する町であった。⑾1929年にシンガポールに滞在した森三千代(1901~1977)は、『新嘉坡の宿』(興亜書房、1942年、pp. 103-104)で「東京の山の手と下町、上海の呉淞路とバンド、香港の官衙街とワンチャイにも見られるが、シンガポールほど離れているところはなかった。貧乏画家の絵を買って助けてあげようとするのはステレツの人々であった」と書いている。⑿『南洋日日新聞』記事、前掲注⑷。見出しは「矢崎画伯の作品公共団へ寄贈、市内の理髪屋へも亦た寄贈」⒀華人の学校はもとの出身地域によってつくられ、出身地によって通学する学校が決まっていた。教科書は中華民国政府が許可したものを使用し、教育課程に美術・図工も組み込まれており美術の教師がいた。寄贈先15校のうち、次の13校が現在も存続していることがわかった。南洋中学校(HwaChong Institution)1919年創立、南洋女学校(Nanyang Girls' High School)1917年創立、崇正学校(Chong Zheng Primary School)、育英学校(Yuying Secondary School)1910年創立、道南学校(TaoNan School)1910年創立、启学校(Qifa Primary School)1906年創立、端蒙学校(Tuan MongHigh School)、中女学校(Zhonghua Secondary School)1911年創立、南女学校(Nan HwaGirls' School)1917年創立、养正学校(Yangzheng Primary School)1905年創立、同学校(AiTong School)1912年創立、崇福女学校(Chongfu School)1915年創立、(南洋)工商学校(Gongshang Primary School)1922年創立。各校に寄贈作品について問合せたが、どの学校も何度も移転を繰り返しており不明であった。⒁姚梦桐Yao, Meng Tong.『新加坡前人美史集』(新加坡洲研究学会、1992年)には、1922年に開催した矢崎の個展についての記述がある。氏は本個展がシンガポールの美術シーンにおいて、非常に早い時期であったこと、また作品の画題が日本の風景ではなく、インドや南洋の風景であったことが重要であると語られた。(2019年11月30日シンガポール国立美術館に

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