鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
190/688

― 178 ―― 178 ―(謝辞)本研究にあたっては、立本寺様、泉涌寺様、および同寺心照殿学芸員・西谷功先生よを集成していたといえそうである。各羅漢群の図像は、様々な先行図像が本来の文脈を離れここに再構成されたものであり、相互の連関は希薄である。A、B、D群など群像表現として完結した図像は群像単位で図像が継承されていたものであり、一方のE尊やF1尊などは、一尊者ごとに固有の図像伝統をもつものである。ただし立本寺本の羅漢に新規に創出された図像はほぼ見られない。ここに古い図像を継承することで法の継承を表す仏画の基本理念が看取されるが、それとは対照的に虎や唐獅子、童子Fの図像、あるいは樹石や渓流の表現には始興の画風が表出する。立本寺本の画面は、先行する羅漢図像を適宜組み合わせつつ、それを自家流に表現した環境描写や侍者によって飾ったものと言えよう。ただし始興がここで比較した諸本を目睹したかどうかは不明であり、かつ論点でない。金大受本や鹿王院本などの図像はわが国にもたらされて以降、一部もしくは全部の複製が繰り返され、様々な形で目に触れたと考えられるからである。ただ泉涌寺については、直接の関係を想定することが可能であろう。泉涌寺本の一~五人の尊者からなる各群は立本寺本と同様、独立傾向を示す。そればかりでなく、左壁上部の禅定尊と龍の位置関係は立本寺本ときわめてよく似る。両者は裁縫の図像も一致する。前述した始興と泉涌寺との関係を勘案すれば、始興はじゅうぶんに泉涌寺本を目睹し得たと思われる。近世において「泉涌寺の羅漢」は俊芿律師の入宋譚に基づいてその「生身性」が認識されており(注15)、かつ舎利殿に安置される舎利は肉付きの仏牙として庶民にも親しかった(注16)。仏滅後の正法護持を本分とする羅漢の図像として、泉涌寺本が権威性を帯びていた可能性が想定される。また立本寺本では、その表現の一部が同時代の京狩野家や鶴沢派の描法と一致していた。これは始興の学んだ「狩野派」とは何であったかという問いに対し示唆的であるが、まずは当時の各画派間で画法がどの程度共有されていたのかを明らかにする必要がある。立本寺本については始興やパトロン、そして寺方との関係など制作動機の面が全く未解明である。また本稿は羅漢図像に集中しており、表現の問題にまで言及できなかった。これらの点に対するより一層の探求は未知なる始興像を提供する可能性があるため、引き続き注目したい。

元のページ  ../index.html#190

このブックを見る