― 184 ―― 184 ―(2)絵と余白の紙・落款の現状(3)左幅の牛図について下部には墨の色の違いから補筆が確認できる。「とても」の「も」の上部と、「やすき」の「す」にも一部補筆がみられ、「すかたに」の「た」の下方、「に」の大部分が欠損していてもはや形を留めておらず読むことが難しい。2番目の「うし」の「し」にも欠損があり、薄墨によって補筆されていると思われる。左幅では、「牛」「縦横」には少し欠損が、「復」の偏には大きな欠損がみられる。「心」の2角目の下、「印」の最後の字角の下方に欠損があり、補筆が見られる。また一方で、従来から指摘のある右幅の「世中」の文字の濃墨による後入れもある。特に「世」の下の棒線は二重になっていて、文字全体をなぞっている可能性がある。また、「仁獣」の「獣」〔図3〕の文字の「田」からその下「一」につながる線が、切れて、紙がずれている可能性もある。部首の「犬」にも欠損があるようだ。さらに左幅の承句の冒頭の単語「印沙」の間に広い余白があり、「印」は起句の「仁獣」のすぐ下に書かれ、詩歌の構成や意味をわかって書いているようには見えず、疑問を感じる。次に絵をみると、両牛とも小さな欠損があり、薄墨で補彩されている。加えて、絵が描かれていない紙自体にも欠損がある。特に左幅には比較的大きめの欠損があり、別の紙が補われている。また、右幅の落款の「宗達」の「宗」にも欠損がみられる。賛と絵には紙継ぎがあるが、右幅には、さらに山根有三氏が指摘しているように、牛の絵と下方の落款部分の間が切れている可能性もある。以上の通り、今回肉眼では見え難かった、絵も文字にも欠損や補筆等があり、紙全体に激しい痛みがあることがわかった。科学的調査による紙の分析も必要かもしれない(注3)。左幅の牛については、徳川義恭氏が偽物、水尾博氏は別筆、山根氏は弟子筆との見解が出されている(注4)。この件については、別稿でも宗達筆ではないという見解を出した。まず、たらし込みの仕方が右幅の牛は斑紋や筋肉の表現など計算されて施されるが、左幅の牛は、そういったものを意識するのではなく、無秩序に施され、また、水分量も右幅とは異なり、白っぽい箇所と濃い墨との色調の差も生じている。そ
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