― 185 ―― 185 ―れから、細部の描き方の差は歴然で、四本の脚の蹄や足先、左前脚、左後脚の塗り方をみても輪郭線とその内側の墨の間に塗り残しがみられ、喉から前脚にかけての輪郭線と体の内側の塗り方も、輪郭線の上に墨が乗っている部分があり、丁寧とは言い難い。彫り塗も、それによって現れる線には歪みが生じており、滲んで線が消えている箇所もある。尾の付根には、尻の濃墨が尾の薄墨の方へ滲み出て、また尾と尻には塗りムラもある。以上のように右幅よりも技量の劣る左幅は、先行研究でも指摘されたように同一人物が描いたとは考えにくく、弟子など周辺の絵師の関与が想定される。しかし、後述のように光廣の賛の内容は左右幅で一貫しており、また賛の形式が左端から右に書かれる和歌の右幅と、右端から左へ書かれる漢詩の右幅とを並べると左右対称形式になることや、臥牛と立牛との対比、互いが向き合う構図も対幅としての条件を備えている。従って、本稿も右幅の牛は宗達筆、左幅の牛は別筆の可能性が高いことを念頭におきつつも、構想自体は宗達本人に由来し、宗達を代表する工房内で作成された宗達作品との位置づけから考察する。2.宗達と光廣の制作意図について本研究の核となる宗達の制作意図については、来年出版される別稿の内容を簡潔に述べたいと思う。(1)宗達の制作意図:牛の借用について「北野天神縁起絵巻」から牛を借用した宗達の意図を考察した。当時の北野社と光廣について次の点が指摘できる。①天神である菅原道真は歌道の中心人物で、和歌と漢詩の神として高く崇められていた(注5)。②豊臣秀吉と息子秀頼による天満宮の復興によって、天神信仰が高まっていた。③宮中行事の聖廟法楽に、光廣も参加しており、北野社が宮廷にとっても重要な場所で、光廣にとって縁がある(注6)。④光廣も宮廷歌人であること。以上のことから、「北野天神縁起絵巻」の牛を選んだのには、賛者光廣という当代一流の宮廷歌人にもっとも相応しい牛の絵柄だったと考える。また、この牛が宗達筆「源氏物語関屋澪標図屏風」(国宝、静嘉堂文庫美術館蔵)にも借用されており、宗達にとって重要な牛だったと考えられる。この屏風には「西行物語絵巻」からも様々のモチーフが借用されており、近年の研究で、この屏風が納品された際、貴族出身の注文主醍醐寺三宝院覚定の日記に「結構成事也」と書かれていることを挙げ、その満足した要因は彼と貴族たちの文化サークルが共有する絵巻からの借用にあるという見解が出された(注7)。光廣もまた、「北野天神縁起絵巻」を
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