― 186 ―― 186 ―(2)光廣の賛知っていた可能性もあり、宗達は光廣や享受者たちに満足してもらうために選んだ可能性もある。次に光廣の賛の内容を、和歌からみていく。身のほとに おもへ世中うしとても つながぬうしの やすきすかたに自分の身の上を思うと、世の中は憂いごとで辛いけれども、このつながれていない牛の安らかな姿は、自由で、理想の姿にみえる、といった意味になり、宗達の描く牛に理想の境地をみている。「牛」と同音の「憂し」を掛けていて、このような掛詞を使った「牛」が詠まれた和歌は、平安時代の『後拾遺集』等にもみられ、本作は、光廣が和歌の伝統を踏襲していると言える。さらに、この和歌には、繋がれて犠牲になる牛よりも、自由自在の牛をみてその安あん心じんを知れという禅の教えが詠われている (注8)。また、「つながぬ牛」という表現については、先学の指摘にある通り「北野天神縁起絵巻」の牛を借用していることを知っての表現だと考えられる。さらに「つながぬ牛」は、禅宗の画題の「十牛図」も意識しているとも考えられる。なぜなら、光廣も和歌による自画賛の「十牛図巻」(個人蔵)を描いており、つながぬ牛を詠んだ光廣の和歌には、つなぐ必要のない悟りの境地の比喩としての牛も意識していると考えられるからである。次に、左幅の漢詩の賛をみていく。僉曰是仁獣 僉な曰う、是れ仁獣と印沙一角牛 沙に印する一角の牛縦横心自足 縦横、心自ら足る芻菽復何求 芻菽、復た何をか求めん皆はこれを善政のときに現れる仁獣(注9)の麒麟だと言う。確かに麒麟は一角だが、ここに描かれているのは一本角のようにみえる、砂に足跡を残す自由な牛である(注10)。つまり、世俗から離れ隠逸の中にいる牛だから、自在の境地で、心が満たされているので、囚われの身に与えられる上等なご馳走(注11)など要らないのだ、と
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