鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 187 ―― 187 ―(3)光廣と禅いった意味になる。また、仁獣ではないと詠むのは、今の治世に仁獣など現れないという徳川家への批判とも読め(注12)、徳川政権下の宮廷貴族の肩身の狭さを詠んでいるともとれる。光廣にとっては、幕府の宮廷への締め付けや、寛永4年に起こった紫衣事件、その時家康によって島流しにされた沢庵との交流もある。一方で、光廣は徳川家の昵近衆で、宮廷と幕府との取り持ち役もしている。そういう境遇を憂い自由な禅の境地を求めているとも読め、世俗のしがらみなどから解放されたいからこそ禅が受け入れられていると感じられる。このような詩歌を詠む光廣は禅とどのような関わりがあるのかを調べた結果、この時代の宮廷文化に禅文化が広がっていたことが見えてきた。光廣自身も古今伝授を授けた細川幽斎から仏心に通じなければ歌道に達するのは難しいと説かれ、日蓮宗から禅宗に改宗している(注13)。大徳寺の春屋や興聖寺の円耳らと法礼の友となり、春屋の法嗣沢庵との出会い、策伝との親交、さらに近衛信尋や東福門院から厚い崇敬を受けた一絲文守との出会いもある(注14)。宮中では、歌会だけでなく、和漢連句の会も盛んで、五山の禅僧が詩僧として招かれていた(注15)。後水尾院も晩年、信尋の仲介により一絲文守と出会い、禅に傾倒していく。このような宮廷貴族に広がる禅文化といった背景が本図の誕生にあるといえる。以上、水墨画にやまと絵の牛を取り入れたという極めて斬新な発想力とやまと絵の技法も取り入れ、新しいたらし込み技法で表現するという、その革新性の根底には賛者である宮廷歌人光廣に相応しい水墨画を作るという宗達の意図が感じられ、当時の文化の高さを我々に伝えている(注16)。3.牛図の水墨表現の源泉についてさらに、宗達の牛図の源泉を探ってみたい。ここでは本図のもうひとつの特徴である、宗達の薄墨表現に着目し、智融との関係、さらに牧谿についても考察したい。禅と薄墨表現で想起させられるのが、禅林で人気があった智融の罔両画である。智融(老牛智融と号し、通称老融。50歳で出家)は、南宋前期の禅僧画家で、罔両画の祖と目され、牛を描くのを得意とし、長く叢林の間で愛玩された。室町将軍家が収集した宋・元の唐絵・唐物を鑑識と飾り方を示した『君台観左右帳記』の中に「老融牛」との記載があり、日本にも智融の牛図が請来されていることがわかる。しかし、

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