鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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『爪哇日報』1934年7月20日付記事。 S.Sudjojono, 前掲注⑶ p. 43。揚げバナナ(ピサン・ゴレン)はどこでも買えて、安くて手軽で― 8 ―― 8 ― S.Sudjojono, 前掲注⑶ p. 42 会期は1934年7月14日から31日、会場はコルフ書店絵画展覧室。当初、展覧会場はバタヴィア芸術協会会館(バタヴィア芸術協会は、当時、現地で活動していたヨーロッパ人画家の芸術サークルであり、同会館では絵画展等が開催されていた)を予定していたが、日蘭會商で使用されていたため、ノールドウェイクにあったコルフ書店で、会期を2回に分けて展示を行った。日蘭商業新聞社の主催で、越田佐一郎総領事の名前で案内状が出されている。コルフ書店が発行していた新聞 Bataviaasch Nieuwsbladにも紹介記事が、その他のオランダ語の新聞にも広告が掲載された。 後にスジョヨノは、こうした一群の絵画を「ムーイ・インディ(麗しの東インド)」と呼んで、魂のこもっていないうわべだけのものであり、西洋人観光客におもねった絵画であると激しく批判した。そして、描かれる対象に価値があるという考え方に対して異議を唱え、どんな対象て取材)⒂学生の展覧会が開催されたり、学校の周年記念展で作品が出品される機会が出来ていた。国画だけでなく水彩、油彩、デッサン、鉛筆、コンテの作品があった。1922年のマラヤ・ボルネオ展覧会では中女学校の出品作が高く評価されたという記録が残っている。⒃『新國民日報 SHIN KUO MIN JIT POH』は1919年に創立。孫文の支持者で、国民党の「舌」となったとされるシンガポールの華人の新聞である。1937年に『南洋商報』に吸収された。⒄西村竹四郞(1871~1942)東京帝国大学の医師だったが、1902年頃にシンガポールに渡り、開業医として在留邦人、華人等の区別なく診療を行った。日中親善にも尽くし、孫文のシンガポールでの主治医であった。西村は絵が趣味で、シンガポールを訪れた画家たち(和田三造、石井柏亭、金子光晴ら)と交友し自己流ながら日曜日は洋画の稽古をすると記している。⒅西村竹四郎『シンガポール三十五年』東水社、1941年、pp. 230-232、p. 282に「パステル画の大家、矢崎千代二氏、この地に来たり、碩田館に投宿、当分足を停め、南洋の風物を写生する」との情報を得た西村は、「書画でも描いて心の苦悩を追い払おうと矢崎に会見した。すると、パステルで描いて御覧と言ってパステル画箱をくれた」と記している。そして、医師仲間や友人にも紹介したところ、皆「パステル党」になったとも書いている。⒆『爪哇日報』は1920年バタヴィアで佃光治により創刊された日本人社会のコミュニケーションの手段ともなった新聞。1937年に『日蘭商業新聞』(1934年久保辰二が創刊)と合併し、『東印度日報』となった。なお、『爪哇日報』はインドネシア国立図書館で閲覧できたが、『日蘭商業新聞』は所蔵場所がわからず、今回は調査できなかった。⒇矢崎は以前からインドネシアに渡ることを考えていたが、蘭船ばかりで運賃が高く実現しなかった。この度石原汽船を利用できたのは、シンガポールで石原産業公司創業者の石原広一郎の肖像画や、同社のジョホール州スリメダン鉱山を描いたことで繋がりができたものと推察する。美味しいおやつ。スジョヨノが揚げバナナに例えたのは言い得て妙である。なお今回の調査で、矢崎のバタヴィアを描いた作品がジャカルタの画廊で一点見つかった。画廊主はそれをアムステルダムで入手された。また、シンガポール国立美術館にも、オランダの画廊から購入した《バタビアの街並み》(1934年、パステル・紙、24×33)が所蔵されており、これらは本展覧会でオランダ人が購入した作品である可能性が高い。

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