― 190 ―― 190 ―⑼ 「仁獣」は、聖王の治世が行われる際に出現する珍獣の麒麟の異名で、体が鹿、蹄は馬、牛の⑽ 「印沙」は、『佩文韻府』巻二一之三にあり、詳細は拙稿を参照してほしい。「牛が砂に足跡を残す」という意味で解釈する。魚や鳥は古来、中国では自由の境涯(隠逸)の比喩につながり、その鳥のイメージとも結びつく「印沙」の語は、本図の牛が綱でつながれていない自由な境涯にあるという解釈に相応しい用語とも解される。なお、これらの資料については竹浪遠氏の教示を得た。⑾ 「芻菽」は秣(牧草)や大豆の上等な■のこと。芻菽については、『荘子』雜編 列禦寇三十二に用例があり、「或聘於莊子,莊子應其使曰:「子見夫犧牛乎?衣以文繡,食以芻叔,及其牽 而入於太■,雖欲為孤犢,其可得乎!」」で、犠牲になる牛には、刺繍した美しい布を着せて上等な■を与えると言っており、恐らく光廣はこの『荘子』の語を意識していると考えられる。和歌も漢詩も『荘子』を踏まえている。これらの資料については西村氏にご教示頂いた。⑿ 河野元昭氏は自由への強い憧憬を詠じた反語的詩歌、あるいは幕藩体制に組み込まれていくことに対する諦観などと述べている。河野元昭『光悦─琳派の創始者』宮帯出版社、2015年、16頁⒀ 光廣の孫資慶が記した光廣の家集『黄葉和歌集』(六冊)巻末の跋(寛文9年)に記載されて⒁ 安村敏信「烏丸光廣と俵屋宗達」『烏丸光廣と俵屋宗達』板橋区立美術館図録、1982年、2頁⒂ 熊倉功夫『熊倉功夫著作集 第5巻 寛永文化の研究』思文閣出版、2017年、116頁⒃ また、光廣が揮毫した右幅に和歌、左幅に漢詩という珍しい本図の賛の組み合わせについての⒄ 島田修二郎「罔両画上」『美術研究』84号、1938年、4〜8頁⒅ 同上、5頁に掲載されている樓鑰『攻媿集』巻79⒆ 同上、10頁⒇ 戸田禎佑「梁楷・牧谿・印陀羅をめぐる二三の問題」『水墨美術大系 第4巻 梁楷・印陀羅』講付記本文第2章第3節「光廣と禅」の、後水尾院と一絲の出会いについては注⒁の安村氏の説によったが、本稿校了後に次の文献の存在を知ったので、併せて参照されたい。後水尾院と一絲のより深い関わりや、禅宗、黄檗宗との関係について詳述されている。門脇むつみ「後水尾天皇時代の宮廷絵画 描く天皇、皇族と画壇」『天皇の美術史 4 雅の近世、花開く宮廷絵画 江戸時代前期』吉川弘文館、2017年、188〜193頁謝辞今回作品調査に際して、頂妙寺の皆様はじめ、各所蔵機関の方々からご高配を賜りました。さらに、諸先生方、諸機関の皆様からご指摘、ご助言を頂きました。心より深く感謝とお礼を申し上げます。図版出典図1 『琳派誕生四〇〇年記念 特別展覧会 琳派 京を彩る』京都国立博物館、2015年より転載図2、3 執筆者撮影尾をもつ一角獣。いる。考察は別稿に記した。談社、1975年、45頁
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