― 194 ―― 194 ―て見出された茶道具の造形性、3)茶人が追求する美意識により考証する。1 連歌と茶の湯の関連性連歌は、連衆が一座に寄り合って、和歌の上句と下句を一人または数人から十数人で交互に詠み連ねていく文芸の一つである。他方、茶の湯は、数人の親しい人が茶を飲むための専用の空間である茶室に寄り集まり、そこで茶道具やそれらを使って茶を点てる所作を鑑賞し、茶や点心と呼ばれる料理を共に飲食することにより形成される芸能の一つである。連歌と茶の湯は、形式的な面や内容な面において類似性や関連性があることはこれまでにも指摘されてきた(注2)。形式的な側面で言えば、連歌会と茶会はそれぞれ数人の親しい人々が寄り集まって行われ、開催の時期や場所、人選など、会の構成において影響関係が見られる点が挙げられる。他方、内容的な面で言えば、連歌と茶の湯はその精神とする土壌を一にしている点が挙げられる。室町時代後期の茶人、珠光(1423-1502)が弟子の古市澄胤(1452-1508)に茶の湯の心得を記し贈ったとされる「心の文」には、室町時代中期の連歌師、心敬(1406-1475)の「冷え枯れ」、「冷えやせ」、「冷えさび」に由来する「ひゑかるゝ」や「ひへやせる」などの言葉が茶の湯の理念として用いられている。珠光の「心の文」に関しては、信憑性を疑問視する研究者もいるが(注3)、一方で、近世初頭の茶の湯の世界で評価されてきたことを重視する研究者もいる(注4)。本論文においては、この「心の文」を珠光周辺や珠光以降の茶の湯の様相を伝える史料として評価し、取り上げることにする。また、連歌と茶の湯に共通して見られる精神性は、「一味同心」(注5)の言葉からも窺われる。この言葉は、一座に寄り合って、一つの目的のために皆が心を一つにすることを意味する。このように、連歌と茶の湯には、さまざまな点において共通する部分があることが指摘できる。連歌の担い手であった連歌師は、旅を通して都から地方へと広範囲に活動の場を広げ、都市の文化を地方に伝える役割をも担った。その一方で彼らは、連歌を追及し実践するための施設として都市の中に草庵を営んだ。本来、草庵とは、人里離れた場所に建てられた藁や茅などで屋根を葺いた粗末な家のことであり、草庵に住むということは、俗塵を払って精神的な境地を追及することを意味する。文芸の世界では、中国・唐時代の詩人である白居易(772-846)の影響を受けて、藤原公任(966-1041)や藤原俊成(1114-1204)、西行(1118-1190)、鴨長明(1155-1216)らが、隠逸の生活を
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