鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 195 ―― 195 ―象徴する草庵に憧憬を抱いた。彼らの中には自ら草庵を建て、自然の中に身を置きながら、自然の移ろいに思いを寄せる者もいた。そうした隠逸思想を継承しながら、時代に即して新しい草庵の世界を確立した連歌師の一人に宗祇(1421-1502)がいる。文明8年(1476)に建てられた宗祇の草庵「種玉庵」は、西洞院正親町の入江御所の隣(現在の京都市上京区)にあったとされている(注6)。宗祇はそこに、兼載(1452-1510)や宗長(1448-1532)ら常時何人かの門弟を同宿させ、公家や僧侶などを招いて、連歌の張行や連歌集の編纂、連歌の詠作に必要な古典文学の解釈や指導を行った。宗祇が連歌の先達である宗砌(?-1455)、賢盛(1418-1485)、心敬、行助(1405-1469)、専順(1411-1476)、智蘊(?-1448)、能阿(1397-1471)ら7人の佳句を選び、公家の一条兼良(1402-1481)が序文を記した『竹林抄』は、種玉庵が開かれた年に編纂されている。種玉庵は、公家や僧侶らも住む都市の中に建てられた本格的な家屋であり、彼らを接待するに足る設備や人員が整った住居だった(注7)。この草庵との類似性が指摘される空間が茶室である。ここに、草創期の茶人が構えた茶屋の様子を伝える史料がある。珠光の養嗣子である宗珠(生没年不詳)と親交があった連歌師の宗長は、その著書『宗長手記』大永6年(1526)8月15日の条で、宗珠の茶屋の様子を次のように記している。下京茶湯とて。此ころ數奇なといひて。四疊半敷六疊鋪。をのをの興行。宗珠さし入門に大なる松あり杉あり。垣のうち淸く。蔦落葉五葉六葉。いろこきを見て。  今朝や夜のあらしを拾ふ初紅葉(注8)「午松庵」と称する宗珠の茶屋は、その周辺に松や杉を植えるなど、まさに、下京という都市の中にありながら人里離れた場所に建てられた草庵を思わせるものだった。そうした宗珠の茶屋の様子は、室町時代後期の公家、鷲尾隆康(1485-1533)の日記『二水記』天文元年(1532)9月6日の条にも記されている。宗珠茶屋御見物、山居之躰尤有感、誠可謂市中隱、當時數奇之張本也(注9)ここに記される「山居之躰」「市中隱」に相当するものに「市中の山居」と呼ばれる用語がある。『日葡辞書』は、この用語に関して、「広場や市場の中に居て、隠者であること。すなわち、人中にまじっていながら僧侶や隠遁者であることをやめないこと」(注10)と記述している。この「市中の山居」を具体的に記す史料にポルトガル

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