― 196 ―― 196 ―の宣教師、ロドリーゲスが著した『日本教会史』がある。これによると、茶人が客を接待する茶室は、藁や茅など僻地で容易に手に入る素材をそのまま使用して、歳月を経て古びた庵のように作られる。それは、住居と同じ敷地内に建つが、自然の事象の観照に耽る僻地の隠者を真似た孤独の様式だったとある(注11)。この指摘は、連歌師が詩歌の詠作のために草庵の生活を志向し、自然とのかかわりの中で詩歌を詠んだことにも通じる。茶人は、交流をもった連歌師と同様に、都市の中に人里離れた場所に建つ草庵風の茶室を構え、そこに樹木を植え、創り出された自然の中に身を置いて茶の湯の精神性を追及した。連歌師の草庵と茶人の茶室は、市中にありながら世俗を離れた草庵を志向したという点においてその精神性は同一線上にあったと推測される。2 茶人によって見出された茶道具の造形性本論文が対象とする備前焼や信楽焼は、室町時代から桃山時代に茶の湯で使用されたやきものの容器である。これらの中には、本来は日用品として製作され、その後、茶道具になったものと当初から茶道具として作られたものがある。ここでは、当該期における備前焼と信楽焼の生産・流通・消費の状況を概観した後、茶の湯で使用された備前焼や信楽焼の形状を捉えていく。備前焼は、現在の岡山県備前市伊部周辺で生産された焼締陶器である。須恵器の技術を引き継ぎながら12世紀末に開窯する。当初は、朝貢品とは異なる甕や碗などを焼造し、13世紀には、主として壺、甕、すり鉢などの日用品を生産した。そうした備前焼における生産・流通・消費の実態については、『兵庫北関入舩納帳』の積載品や「水の子岩海底遺跡」の出土品から窺うことができる。文安2年(1445)1月から翌年1月までの入船及び関銭賦課を記す『兵庫北関入舩納帳』(注12)によると、伊部・片上港(備前市)から兵庫北関(神戸市兵庫区)に向けて備前焼と推測される「ツボ大小」を積載した船が合計21回入港し、年間1215点出荷されている(注13)。また、昭和52年(1977)、香川県小豆島の橘港から東方沖6km、岡山県備前市片上港から南東約30kmの海底20から40mの地点にある「水の子岩海底遺跡」(注14)の調査が実施され、沈没船の積載物から南北朝時代に生産された備前焼のすり鉢77個体、捏鉢2個体、大型壺67個体、中型壺2個体、各種の甕類ほか、大量の陶片が採集された。これらのことから、備前では、大小さまざまな器種が相当数生産され、出荷されていたと推測される。また、備前では、これら器種に加え、時代の求めに応じて茶壺も生産されていた。
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