― 197 ―― 197 ―日本における喫茶の風習は、渡来僧などを通じて中国から伝えられたことから、その道具も主として唐物と呼ばれる中国や東南アジアから輸入した美術工芸品が使用されていた。ところが、室町時代に至りさまざまな形式の喫茶が行われるようになると茶の需要が高まり、それを入れ運搬・貯蔵する容器として国産の茶壺が生産されるようになった。その事実を窺わせる史料に公家の山科教言(1328-1411)の日記『教言卿記』がある。応永13年(1406)4月8日の条には、備前焼の茶壺の金額や茶壺に入れた茶の袋の数、送り先など、茶壺の使用の状況が記されている。一、備前茶壺二、一ヲ百十ツゝ買一、茶十袋楠葉代官進之、御方、十袋同(注15)また、応永13年(1406)5月6日の条には、次のようにある。備前茶壺、四百五十買之(注16)加えて、応永24年(1417)以後の往来物を記す『桂川地蔵記』には、当時流通していた茶壺の種類とそれに入れる茶の産地名が記されている。眞壺洞香。清香納於深瀨逆園。外畑藤淵小畠摠山茶。宇治森澤。及上葉之茶。又香香登信樂瀨戸壺。入於伊賀。大和。松本。粟津之不前簸屑等(注17)唐物の茶壺には上質の茶を入れ、備前や信楽で作られた国産の茶壺には屑茶と呼ばれる品質の下がる茶が入れられている。このことから、国産の茶壺は唐物の茶壺よりも下に見られていたことが分かる。ここに記される信楽焼は、現在の滋賀県甲賀市信楽町を中心とする周辺地域で生産された焼締陶器である。13世紀後半に窯業を開始し、中世を通して壺、甕、擂鉢などを主体として生産した。信楽では、そうした日用品に加え、時代の求めに応じて茶壺も製作された。公家の近衛政家(1444-1505)の日記『御法興日記』文明12年(1480)7月30日の条には、茶を袋に入れ、それを信楽焼の茶壺に詰めて贈答品にした様子が記されている。
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