― 198 ―― 198 ―自信楽進八朔御茶卅袋、禅閤様に五十袋定進南都歟、茶壺大小三令進禁裏、先日依被仰出也(注18)さらに、翌13年(1481)6月30日の条には、次のようにある。茶壺二令進上 禁裏、一遣伯民部卿、自去春比被仰出了(注19)日記には、葉茶を入れた茶壺を禁裏と民部卿に進上したことが記述されている。これら公家の日記や往来物から、喫茶の風習が広まっていた様子が窺われる。先にも記したように、16世紀になると茶の湯が行われるようになり、そこでは、本論文が注目する備前焼や信楽焼が使用されていた。それらが茶の湯の場で使用されるようになった事例を示す史料の一つに一漚軒宗金(生没年不詳)が著した『茶具備討集』がある。天文年間(1532-1555)に使用されていた茶器の読み方や種類などを記した『茶具備討集』の「水次」の項には、まず「茶桶」「抱桶」など木製の桶が、次に「芋頭」と呼ばれる南蛮物の土物の容器が、最後に「滋賀楽物」「備前物」がそれぞれ記載されている。他方、茶会記における信楽焼の登場に関しては、『松屋会記』天文11年(1542)4月9日に行われた北向道陳(1504-1562)の茶会に「信楽水指、畳二置合」(注20)とある。以降、茶会記から信楽の水指の使用が確認される。また、『天王寺屋会記』天文18年(1549)12月12日に行われた椋宗理(生没年不詳)の会に「一 水指 水こほし ひせん物」(注21)とあり、茶会記に初めて備前焼の水指と建水が登場する。加えて、桃山時代の茶人であり千利休(1522-1591)の弟子であった山上宗二(1544-1590)が記した『山上宗二記』には、信楽焼の水指と備前焼の建水に関する記述がそれぞれある。まず、信楽焼の水指に関しては、次のようにある。一 紹鷗信楽、宗易ノ信楽、イツレモ能水指也、一 玄哉信楽鬼桶、城之介殿ニテ滅ス、但シ又出シカ(注22)そして、備前焼の建水に関しては、次のようにある。一 紹鷗備前物ノ面桶、萬代屋備前物甕ノ蓋、宗易タコツホ、宗及備前ノ合子、
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