鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 199 ―― 199 ―ミキタヤ棒先、此五ツ何レモ數奇道具也(注23)茶書や茶会記から、天文年間(1532-1555)以降、信楽焼や備前焼の水指が使用されるようになったことが窺われる。ただし、備前焼の建水の使用に関しては、永禄9年(1566)から天正13年(1585)までの使用回数が多い。茶道具の生産状況に関しては、信楽焼の茶碗の初出が天文18年(1549)であることから、16世紀中ごろには国産の茶碗が生産されていたと考えられるが、信楽焼の水指は一般的な桶などの日用品と同形であることから、その実態をつかむのは難しいとされている(注24)。また、信楽焼の水指の形状に関しては、武野紹鷗(1502-1555)や利休、辻玄哉(?-1576)ら所有者の名を冠するが、詳細は不明である。他方、『山上宗二記』にも記載があるように、備前焼の建水は、南蛮の甕の蓋を建水に転用した「甕ノ蓋」と呼ばれるものや輿の棒の端のかぶせ金属に形状が似ていることからその名が付けられた「棒先」など、金属器の造形に倣ったものが製作されていたことがその名称から推測される。このように、茶の湯草創期には、日用品として作られた備前焼や信楽焼に加え、金属器の造形に倣って作られた茶道具が使用されていた。つまり、草創期の茶の湯で使用された水指や建水の形状ははっきりと定まっておらず、また、木製の桶や金属器の造形を超える新しい形を創作する段階にまでは至っていなかったのである。3 茶人が追求する美意識茶人は、水指や建水など、その形状がはっきりと定まっていない道具をどのようにして選択していったのだろうか。この問題について、天正11年(1583)にイエスズ会の巡察師として来日したバリニャーノは、その著書『日本巡察記』の中で、茶人は一千個の中から直ちに本物を見分ける眼識をもっていると述べている(注25)。また、先に記したロドリーゲスは『日本教会史』の中で、野趣を帯び、素朴であってなんら人工を加えることなく、自然がそれを創った通りにただ自然のままであるものの中に茶人は神秘さを見出していたと述べている(注26)。両者は、茶人には自然に由来する独自の価値観があり、それによって茶道具を選択していると考えていたようである。このように、茶人が茶道具の選択の拠り所にしたものは、先ほどから本論文の遡上にのせている連歌に見られる物事の捉え方であった。鎌倉時代初期の公家であり歌人でもある藤原定家(1162-1241)は、その著書『詠歌大概』に、古典的な和歌の表現の体得法を記している。

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