鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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「 銀杏の葉を拾はせて、人に遣はすとて」と前置きのある歌である。 ― 200 ―― 200 ―常観念古歌之景気可染心。(中略)時節之景気・世間之盛衰為知物由(注27)定家は、四季折々の美観や人間生活の様相など、自然や人事の本質を知ることの重要性を指摘している。この『詠歌大概』一巻を紹鷗が実隆より授かり、その後、その序の講釈を受けたことが『実隆公記』には記されている(注28)。こうした和歌や連歌に見られる物事の捉え方は紹鷗における茶道具の選択に少なからず影響したと推測される。一方、宗長がその日記『宗長日記』に記す賓樹院への返歌に詠み込んだ「銀杏」という言葉に対して、廣木一人は次のように指摘している。梓弓銀杏のもとの薄く濃き落葉を風に拾はせぞ遣る「銀杏」を詠むことも過去に例のないことであるが、それはそれとして、このような日常に心情を込めて、それを自在に詠むというあり方は、近世の地下歌人に繋がるものだと思う(注29)本来、和歌では用いられない言葉を取り上げて、日常の情景を感慨深く歌に詠み込むという連歌師の在り方は、唐物のみならず備前焼や信楽焼といった日用品に茶道具としての美的価値を見出した茶人の在り方にも通じる。すなわち、茶の湯が「ひゑかるゝ」や「ひへやせる」といった連歌の理念とともに、身の回りの景物を積極的に取り入れ、日常の情景を感慨深く詠み込むという連歌師の在り方を取り入れたことが備前焼や信楽焼の美的価値の発見に繋がった蓋然性は高い。茶の湯草創期の茶人の功績として次の二点が挙げられる。一つは、備前焼や信楽焼を茶の湯の道具として定型化した点である。目的に適うものを日常の中から拾い上げ、日用品として生活の中で使われてきた備前焼や信楽焼などの国産のやきものを茶の湯に適う道具として使用する。この時、茶人は、単に日常で使用していたものを茶道具に転用したのではなく、その大きさや形など、茶の湯に適したものを吟味し、選択した。その選択の拠り所となったものが、連歌の理念と連歌師の在り方だった。茶人は連歌師との交流を通じて、対象の本質に鋭く切り込もうとする連歌師の精神性を受けとめ、自然に対する感情や日常に対する心情をもとに茶道具の選択を行ったのである。もう一つは、そうした日用品の要素を残しながら新たな茶道具の創造にも着手した

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