― 204 ―― 204 ―階で十分ではないが、未だ研究が手薄い19世紀の円山・四条派をはじめとする画家の個別研究に少しでも寄与できれば幸いである。1.歌壇との関わり夜潮に関する史料は少なく、幼少期から20代前半の動向については不明で、29歳頃から画家としての活動が確認できる。制作年の明らかな最も早い作例は、夜潮が29~32歳にあたる時期の『狂歌手毎の花』(全四冊)〔表1、番号1〕という画賛狂歌集である。編著者は京都で書店を営んだ文屋茂喬(生没年不詳)で、文化7年から10年(1810-1813)にかけて、毎年一冊ずつ刊行された。本書の前半は近畿圏を中心とした狂歌師の歌に挿絵を添え、後半に各社中の狂歌一覧や狂歌師の俗名などが載る。夜潮のほか、合川珉和(?-1821)、円山応震(1790-1838)、河村琦鳳(1778-1852)、福智白瑛(生没年不詳)らが挿絵を担当している。珉和は京都の浮世絵師で岸駒の門人といわれ、滑稽本などの挿絵を数多く手がけ、また『扁額規範』の挿絵を描いた人物として知られる。応震は応挙の次男・木下応受の子で、のち伯父応瑞の養子となり円山派三代を継いだ人物で、琦鳳は河村文鳳の弟子かつ養子で絵画のほか俳諧をよくした。白瑛は京都の浮世絵師・戯作者で葛飾北斎や円山派の八田古秀に絵を学んだ人物である。夜潮は初編4図、二編3図、三編2図、四編4図を担当し、初編では第一図〔図1〕を飾っていることから、本書の主要な挿絵画家としての地位を窺わせる。夜潮の挿絵にはすべて「夜潮」の署名とカタカナで「ヤノ」と読める黒文方印または朱文方印が押されている。狂歌に合わせて、人物、風景、動物などを描いており、特に人物造形は、面長で首が短い四条派の特徴が現れている。次に述べるように、夜潮の肉筆画には素絢の影響が色濃いものがあるが、本書ではすでに四条派の画風を獲得している。根拠は明らかでないが『近世人名辞典』において、月渓門人と記される所以も納得できる。また、初編および二編の奥書に続く広告欄には『狂歌手毎の花』の付属本として、応震、白瑛、夜潮、珉和が挿絵を担当する『狂歌画賛集』という彩色摺の本が刊行される旨が記されている。さらに、文化8年(1811)の序がある滑稽本『浮世滑稽ありま筆』(二冊、年々房来里著、神宮文庫蔵)〔表1、番号2〕では珉和と夜潮が挿絵を担当していることも判明した。文芸に関わる挿絵の仕事は文政期に入っても続いたようだ。ミネアポリス美術館には夜潮が挿絵を手がけた俳諧摺物4点が所蔵されている。そのうち、「傀儡子(英題:Puppetter)」(一枚)〔図2〕〔表1、番号10〕には文政6年(1823)の年紀があり、夜
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