鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 205 ―― 205 ―潮42歳の制作だとわかる。「湖左桜門連」の俳諧師らについては判然としないが、人名の右上に記された地名は現在の滋賀県東近江市、竜王町、近江八幡市と思われ、「湖左」とは琵琶湖の東側を意味していると考えられる(注9)。ほか3点に年紀はないが、落款が文政2年(1819)の序をもつ『樗日記集』(一冊、フリーア美術館 ゲルハルト・プルヴェラー日本絵本コレクション)〔図3〕〔表1、番号8〕の夜潮の挿絵とよく似ているため、いずれも文政2年前後と推察できる。「盆踊り(英題:Festivaldancers)」〔図4〕〔表1、番号13〕に記された狂歌師の「井眉」および「萩(英題:Flowering bush clover)」〔表1、番号14〕の「井眉庵」は、大坂の誹諧師・岡井眉(1760-1837)のことで、「此角」「茶外」「井竹女」「亜井」らも彼の社中の俳諧師である(注10)。また、文政10年(1827)の年紀がある「桶屋図」(一幅、個人蔵)〔図5〕〔表1、番号11〕は夜潮晩年の作品で、職人が桶を作る様子を淡い色調で軽々と描上げている。上部に、国学者で本居宣長の養子である本居大平(1756-1833)の賛を伴う。「さき竹のわれをばしばしおしまげてひとのこころをくみいれよかし」(注11)とあり、桶職人を踏まえた歌が記されている。以上の作品からは、夜潮の画業の早い時期から晩年まで、同時代の近畿圏の歌壇と密な関わりがうかがえる。2.春日祭図巻について夜潮の代表作に数えられる「春日祭図巻」〔図6〕〔表1、番号3〕は、上下二巻からなる紙本著色の画巻である。下巻の巻末に「文化九壬申二月観南郡春日祭儀退而寫於平安永昌村寓居夜潮物集女敏」の落款があり、文化9年(1812)二月に春日祭を観て、京都永昌村の寓居にて描いたことがわかる。春日上巻の冒頭に「帰一」による「春日祭」という題字があるが、この人物については不明である。清水健氏の解説によれば、かつて2月と11月に行われていた勅祭の春日祭ではなく、上巻に2月に行われた興福寺の薪能と11月に行われたおん祭のお渡り式(風流行列)のうち祝御幣・梅白杖・日使・巫女・細男を、下巻にそれにつづく猿楽・馬長児・射手児・随兵・乗込馬・野太刀・長刀・小太刀・大名行列・田楽を描いたものという(注4)。上下巻合わせて約18.6メートルにおよび、制作年がわかる作品のうち一番の大作といえる。一般的に、祭礼を描く図巻は儀式の様子を忠実に描止める記録画的なものが多いが、本図は、行列を直列に並べるのはなく画面からはみ出るように上下に配置し、人物の生き生きとした動作や奥行きを表現しようとする意図が感じられる。全体的に淡色で彩

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