鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 206 ―― 206 ―色されており人物や馬の造形などは四条派の表現に倣っているが、人物の額から鼻筋、顎にかけての縦部分を白く塗り残すのは夜潮独特と言える。残念ながら本図の制作意図や依頼主に関する史料はなく、落款の「永昌村」についても定かではない。だが、興味深いことに、ほぼ図柄が一致する別本が『近衛公爵御蔵器第壹回入札目録』(大正7年6月5日)および『某大家所蔵品入札目録』(昭和8年3月14日)に掲載されている(注12)。近衛家伝来の別本は、賀茂季鷹(1754-1841)の題字を有し、絹本着色の一巻である。残念ながら、図版が鮮明でないため落款を読み取ることができない。季鷹は、上賀茂神社の祠官を勤め、有栖川宮職仁親王に歌道を学び狂歌や書道にも秀で近衛家とも関わりがあった。夜潮が狂歌本の制作に携わっていたことがきっかけで、本図制作の依頼があったとも考えられる。近衛家伝来本が現所在不明であるため比較検討が困難だが、描きこみについては大差がないように思える。両方本の関係性に関しては近衛家伝来本の再出を待つしかない。3.夜潮と絵図19世紀の京都の画家について考える際、絵図との関係は一つの大きな追究課題といえるかもしれない。たとえば、夜潮と同時代の画家横山華山(1781または84-1837)には、文化5年(1808)に刊行された摺物「花洛一覧図」(京都市歴史資料館蔵)が知られる。京都を俯瞰的に捉えた鳥瞰図で、美しい彩色と奥行きのある空間の捉え方がなされており、刊行されるとすぐに大きな反響を得た(注13)。すでに述べたが夜潮の生家である矢野家は、幕府の仕事も担う京都では有名な絵図師の家系であった。次男であった夜潮は養子に入り家業は兄が継いだが、夜潮自身も絵図製作とは無縁ではなかったようだ。文化10年の『平安人物志』の夜潮の項目には居住地を矢野家の屋敷があった「姉小路大宮東」、通称名を「矢野長兵衛」としている。ともすると、この頃には本家に戻り一時家業を継いでいた可能性が考えられる。『テーマ展 絵図のまなざし』によれば、矢野長兵衛が手がけた絵図の特徴として造形技術の高さと彩色の美しさが指摘されており(注14)、夜潮の絵画的技量が矢野家の絵図製作に影響を与えたとも考えられる。また、早稲田大学図書館には、表に中山道、裏に東海道の道程を描いた夜潮の扇子が所蔵されている〔図7〕〔表1、番号21〕。これは、早稲田大学の教授であった勝俣銓吉郎(1872-1959)の旧蔵品で、全11本の扇子のうちの1本である。本紙自体は摺物だが、表には「矢敏之印」(朱文方印)と「仲観」(朱文方印)、扇子の販売元を示す「御影堂□阿弥」(朱文長方印)が押されている。絵図のように正確な地理的関係

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