― 207 ―― 207 ―を示すのではなく、画中に街道が収まるように配置されており、元から扇子として仕上げることを想定したものと思われる。このような作例から、夜潮は絵画作品だけでなく絵図的な仕事も同時に担っていたことが予想される。近代化が押し寄せる19世紀において、絵図的な描画力は夜潮の強みの一つであったに違いない。4.同時代画家との関わり、京都風俗を主題とした作品『平安人物志』に記されるように夜潮は素絢の弟子として知られ、文化・文政期に活躍した画家らとも交わった。先行研究では、萩を夜潮、尾花を吉村孝敬(1769-1836)、葛を柴田義董(1780-1819)、撫子を橘公遵(生没年不詳)、女郎花を素絢、藤袴を東東寅(1793-1853)、朝顔を東東洋(1755-1818)が描いた寄合描きの「秋七草図」〔表1、番号5〕や、素絢の「笑い上戸図」、夜潮の「浦島図」など、京都・大坂の画家たちの絵が貼り交ぜられた「京洛三十六家山水花鳥人物図貼交屏風」〔表1、番号6〕といった作品が紹介されている。制作時期は、「秋七草図」が東寅の活動時期が確認できる時期を上限、素絢の没年を下限とし文化年間(1804-1818)の制作、「京洛三十六家山水花鳥人物図貼交屏風」が孝敬の「鴨図」の年紀から文化13年(1816)頃と推定されている。大英博物館が所蔵する「京洛十二ヶ月風俗図巻(英題:The Twelve Months in Kyoto)」(一巻)〔表1、番号4〕では、各月一図ずつを山口素絢、西村南亭(1755-1834)、夜潮、合川珉和、山崎龍女(生没年不詳)、柴田義董、横山華山、松村景文(1779-1843)、鶴沢探泉(1755-1816)、岡本豊彦(1773-1845)、原在中(1750-1837)が担当している。年紀はないが、制作の下限は探泉没年の文化13年(1816)とすることができる。夜潮は旧暦3月に行なわれたやすらい祭〔図8〕の様子を描いており、その彩色や造形感覚は先の「春日祭図巻」に近く、小画面ながら祭りの躍動感を巧みにあらわしている。次に、夜潮単独の作品をみていきたい。「糺森避暑図」(一幅、個人蔵)〔図9、10〕〔表1、番号15〕は丁寧に細かく彩色が施された作品である。左上に夜潮の筆で「糺森避暑」と題され「夜潮」の署名があり、「正敏」(白文方印)、「仲観」(白文方印)を押す。『都林泉名所図会』(寛政11年刊)によれば、下鴨神社境内の糺ノ森では旧暦6月19日から月末まで御手洗川のほとりで茶店を設けるなどして納涼を行う風習があった。本図では川床の上に、お歯黒をした老婆、若い女性、脇差をした男性、稚児らが描かれる。このような川床の上で涼む風景は、素絢画を集めた『倭人物画譜』(寛政11年刊)〔図11〕にも収載されるように先例がある。目の周辺に朱を入れ鼻筋を白
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