鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
229/688

― 217 ―― 217 ―儀礼が行われる際、この像が発願者と観者を彼岸へ連れていく媒介者としての役割を果たしていること、また儀礼が行われない際にも、発願者と観者の代わりに彼岸へ行き如来と十二菩薩の説法を請う役割を担っていると述べている。その意味で、本図の跪く菩薩形の尊格は十二菩薩のひとりではなく、大足石窟円覚洞の聴聞者像と同様の意味をもつ可能性が高いとしている(注18)。円覚経の儀礼に関連する造像のなかにあらわれる聴聞者の図像に、此岸と彼岸の橋渡しをする役割が与えられているという指摘は大変重要である。本図と同時代の制作と考えられる中国や日本の作例にも、説法空間に供養台や聴聞者が描かれることはままあるが、二十八天王があらわされる例は確認できない。本図を三次元的に考察すれば〔図9〕、二十八天王は説法教主から最も離れたところに位置していることがわかる。通例では、金剛、鬼王、四天王は、護法神として画面の外縁部に配置されることが多く、その前方に梵天や帝釈天などの天部が置かれるが、本図の場合、二十八天王は護法神の前に描かれる。本図の特殊な構成は、円覚経の修行や儀礼を実施するにあたり、跪く菩薩形の尊格がまず二十八天の居る場所を通過し、最終的に円覚浄土へ到達し盧舍那仏と対面する、という流れを意識した上で採用されたと言えるのではないだろうか。さらに卍字の表現であるが、高麗仏画では如来形の尊格の胸元に等しくあらわされる標識であり、何より高麗における仏教の基本理念の基盤である八〇巻本『華厳経』に毘盧遮那仏の徳相のひとつとして明記されていることから、卍字の表現そのものに華厳思想が強く内包されていると見てよい(注19)。本図のそれは、まさしく華厳世界に住まう法身たる毘盧遮那仏の特徴として描かれていると考えられ、したがって本図の制作の目的とは、広大無辺な華厳世界の教えについて、報身たる盧舎那仏が円覚経という経典を介して分かりやすく説き示すことにあると解釈したい〔図10〕。本図を前にした発願者をはじめとする儀礼の参加者たちは、自身を画中の跪く菩薩形の尊格へ投影し、盧舎那仏から直接説法を受けるような体験を得ていたと推定できよう(注20)。2)観想の視覚化 ─湧出雲と香炉─観想とは、ひとつの対象について心を集中して深く考察することであり、これにより三昧の境地が得られたならば、仏菩薩を見ることができるようになる、というものである。そしてこの観想を実践する者は、罪障を滅し浄土に往生することができるという(注21)。

元のページ  ../index.html#229

このブックを見る