鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
239/688

― 227 ―― 227 ―図」、「禅会図」という三つの画巻からそれぞれ分離されたものであるという立場を一貫されている(注4)。その主な理由は、南宋と元時代の禅僧の語録に「祖師図」、「散聖図」、「禅会図」に題する詩文が収録されているからである。これらの作品は、詩文の内容から複数の場面で構成されていたことが確認され、画巻であった可能性がきわめて高い。こうした考えにしたがえば、現行の「禅機図断簡」のうち「丹霞焼仏図」は祖師図巻、「布袋蒋摩訶問答図」と「寒山拾得図」は散聖図巻、「智常禅師図」と「李渤参智常図」は禅会図巻に属することになる。祖師図巻は、法を伝えた歴代の禅宗高僧の画像、あるいは彼らに関するエピソードを描いた画巻である。一方、散聖図巻は、法嗣がなく、その行いは常軌を逸しながらも人々に仏心を呼び起こした人物を主題とする。また、禅会図巻については、禅僧と俗人の対話を意味する「禅会」を絵画化したものである。なお、石渓心月、虛堂智愚、西巌了恵、希叟紹曇、大休正念が「禅会図」に題した詩文には、禅僧と帝王または士大夫が問答する場面のほか、唐時代の居士として知られた龐蘊一家のエピソードの場面が付加されている点に注意しておきたい(注5)。必ずしも「禅会」とはいえない龐蘊一家のエピソードが付加されていることは、当時の禅会図が、狭義の意味での「禅会」だけでなく、禅宗の人物と関係のある主題を網羅しながら、より広がりのある概念として流動化していたようすを伝えている。さて、「禅機図断簡」は、その主題から三種類の図巻にその源があったとすれば、主題と場面の対応から、木造の仏像を燃やして暖を取った丹霞天然が寺の住持に叱られた場面の「丹霞焼仏図」は祖師図、よく風狂の態をさらす布袋や寒山・拾得を主人公とする「布袋蒋摩訶問答図」と「寒山拾得図」は散聖図、帰宗智常と在俗居士の李渤らが問答する場面を描いた「智常禅師図」と「李渤参智常図」は禅会図に分類される。しかし、先に指摘した南宋時代における禅会図の内容の流動性や多義性とも関係し、無学祖元が「禅会図」に題した詩文は、先行研究で言及されたことはないものの、因陀羅の「禅機図断簡」における主題や由来を考える上で検討に値する(注6)。その禅会図に描かれる各場面は、先にみた禅僧と帝王や士大夫の問答に龐蘊一家のエピソードを付加した南宋の禅僧の語録の事例よりも、さらに広範な主題を網羅していて、当時、禅会の意味がより流動的で多義的であったことの証左となる。祖元は日本へ渡来した南宋末元初の禅僧である。その活躍年代は、先述した心月、智愚、了恵、紹曇より一世紀ほど遅れるが、正念とほぼ重なっている。事実、祖元が題した二十四

元のページ  ../index.html#239

このブックを見る