― 228 ―― 228 ―場面の禅会図には、禅僧と俗人の問答対話は、三場面のみである。それは、華厳休静と後唐の荘宗、南泉普願と士大夫の陸亘、圜悟克勤と女性信徒の范県君との間で行われた禅問答である。そのほか、散聖と見做することのできる政黄牛と泉大道を主人公とする二場面を除けば、残りの十九に及ぶ場面は、すべて祖師に関するエピソードを描いたものとなる。つまり、祖元が題した禅会図には、従来の分類にしたがえば、禅会図のみならず、本来、祖師図と散聖図の範疇に入るはずの場面も含まれているのである。これらのことを念頭におくと、祖元の「禅会図」に題した詩文を根拠にさらに興味ぶかいことが推察されてくる。つまり、因陀羅の「禅機図断簡」は一つの「禅会図」を名称とする画巻から分離された可能性が浮上してくるのである。祖元は南宋が元に滅ぼされた至元十六年(1279)に渡日してから中国へ戻ることはなかったが、日本にいても祖元の名は中国に知られ、元時代の江南禅林にかなりの影響力があったことが推察される。古林清茂が祖元の語録に題した文によると、祖元の門人が師の語録を出版し、それを持参して中国へ渡ったところ、中国の修禅者が、先を争って伝誦しようとしたという逸話があり、そのことを象徴している(注7)。さらなる資料の探索が必要であるが、祖元の題詩の契機となった作例の存在から、狭義の祖師図と散聖図とを含めて、広く「禅会」を主題とする作例を「禅会図」という範疇で理解することが一般的であった可能性を指摘しておきたい。現行の因陀羅の「禅機図断簡」は、その具体的な作例として理解されるべきである。2.「観音図」の図像と賛文「観音図」では、観音が、両手を腹前で交差し、片手に数珠を持って、片足を踏み出すようすで立っている。これは、一般的に「行道観音」といわれる図像の伝統を踏襲している。十二世紀初期に成書した日本の図像集『別尊雑記』に掲載された「唐本」の「白衣観音図」〔図4〕には「行道観音」の注記があり、一連の「行道観音」の祖型がこうした唐本にあることを泉武夫氏が指摘されている(注8)。氏の研究によると、この図像はほかに湧雲上に立つもの、あるいは虚空中に立つもの、さらに蓮舟上に立つものなどの複数の型へと変容しながら、中国からその周辺の東アジアの地域に広がったという。例えば、元時代に制作された「補陀落山聖境図」(長野・定勝寺)の右下の潮音洞に描かれる観音立像〔図5〕は、数珠を執らないものの、その立姿が『別尊雑記』の「白衣観音図」に近く、「行道観音」のヴァリエーションの一つと看做すことができる。「補陀落山聖境図」の観音立像と同様に、「観音図」も「行道観音」
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