鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 230 ―― 230 ―貧しさは本当の貧しさになった。去年の貧しさは錐を挿すところがまだあったが、今年の貧しさは錐すらない。』」と返事し、それを聞いた慧寂は「君はただ如来禅を得たのみ、まだ祖師禅を得ていない」という評価を下したという。これより、「観音図」の賛文は、「祖師禅」ではなく、「如来禅」を示した智閑による偈を引用していることが明らかである。さて、筆者は、この引用が、禅と教学との一致を主張する禅教一致の立場を伝えていることに注目したい。如来禅とは、如来が行った禅、または如来から直ちに伝わった正伝の禅を指す。この禅教一致の概念は、圭峰宗密によって提唱された。宗密は、華厳宗の教学を高揚する傍らで禅にも通じ、禅教一致を唱えたという(注10)。一方、祖師禅は、慧寂によって提唱され、「如来禅」と対立する概念である。つまり、祖師である達磨が正伝した禅で、とりわけ「教外別伝」・「不立文字」・「頓悟」を主張する六祖慧能下の南宗系の禅をいう。慧寂から見れば、悟りを貧しさに擬えながら、今年が去年より悟りの境地に近いと言った智閑の立場は、「藉教悟宗(経典の修学によって悟りを開く)」、「漸悟」といった教宗の特徴を如実にしめす如来禅に相応しいのであり、それは祖師禅の立場とは一線を画している。「観音図」の賛文が智閑による偈を引用した理由は、依頼者の身分に関係していると考えられる。判読しがたい文字が数箇所あるものの、「壬梵因為千仏□法師□筆時延祐改元季□□下」と読める「観音図」の落款から、因陀羅が延祐元年(1314)に「千仏□法師」のためにこの観音図を制作したことを知ることができる。法師とは、禅師と律師に対して、文字、経論の研究者を意味することから、「千仏□法師」なる人物は教宗の僧侶であると考えられよう。「千仏□法師」は画像だけでなく、賛文の依頼者でもあったと解し得るのではないだろうか。つまり、明本は禅僧でありながらも、教宗の「千仏□法師」の立場を理解し、賛文を通して禅教一致の思想を伝えようとしたと想定できるのである。3.「禅機図断簡」と「観音図」の画風「禅機図断簡」に描かれている人物をみると、頭髪と眼や鼻口などの描き方は十二世紀後半に智融が創始した罔兩画にまで遡り得るが、その受容は限定的にとどまり、むしろ濃墨の衣紋線は十四世紀に江南の禅林の周辺で制作された水墨人物画と近い(注11)。智融に帰すことのできる作例は残っていないが、徳川美術館所蔵の「布袋図」〔図6〕は従来、十三世紀中頃に制作された罔兩画の代表作として認識されてきた(注12)。「禅機図断簡」の人物、例えば「布袋蒋摩訶問答図」の布袋〔図7〕では、

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