― 232 ―― 232 ―持佛慧淨辨圓通法寶大師壬梵因」という落款が認められ、因陀羅が汴梁(現在、河南省開封市)に所在した上方祐國大光教禅寺の住持であったことが分かる。しかし、梵琦やその師であった元叟行端などの著名な江南の禅僧たちの因陀羅作品への着賛や題詩は、因陀羅と江南の禅林との密接な関係の一面を伝えている。すでに指摘されているように、当時の禅僧は、頻繁に文人たちと交流したことから、江南の禅林に文人文化が広く浸透することになった。「禅機図断簡」は、まさしく十四世紀の江南の禅林における文人文化の受容を反映した産物であったといえよう。こうした状況下で描かれた「禅機図断簡」は、因陀羅の禅余画的作風が発揮されてものであると考えたい。「禅機図断簡」のうちの「寒山拾得図」には「釋氏陀羅禪余幻墨」という印章が捺されている。「釋氏」とは、釈迦を指すが、ここでは僧侶を意味している。つまり、「釋氏陀羅」は、僧である陀羅という意味に解される。「禪余」は習禅の余暇、「幻」は絵自体、または絵を画くことを意味する。したがって、印文全体の意味は、僧の陀羅が習禅の余暇に描いた絵画ということにあたる。すでに指摘されているように、陀羅は因陀羅の梵名である可能性が極めて高い(注14)。したがって、この印章は因陀羅本人のものと看做しうる。「禅機図断簡」は元来、一つの禅会図巻に属した可能性が高いことを考え合わせると、因陀羅にとって、「寒山拾得図」を含む「禅機図断簡」は彼自身の「禅余幻墨」に違いない。一方、「禅機図断簡」の画風と異なる「観音図」は、因陀羅の芸術において、非「禅余幻墨」として位置づけられる。「観音図」では、衣紋線が太い一方、肉身線がかなり繊細である点が「禅機図断簡」と異なり、衣紋線の筆数も「禅機図断簡」より多い。さらに「観音図」にみられる衣紋線に沿って墨を暈すという描き方は「禅機図断簡」にはみられない。また目と唇はそれぞれ白塗りと丹塗りの痕跡があることから、元来着色されていた可能性もある。「観音図」は先述した通り、因陀羅が教僧の依頼に応じて制作したものであり、あえて「禅機図断簡」のような「禅余幻墨」とは異なる画風が採用されていると解釈できる。おわりに因陀羅は従来、レパートリーに欠けた画僧として認識されてきたが、「観音図」の出現によって、これまで見過ごされてきた因陀羅の新たな一面が明らかとなった。先述したように、因陀羅にアトリビュートされた作品では、その主題と画風はほとんど「禅機図断簡」と類似している。「禅機図断簡」は一つの禅会図巻から切断された可能性が高く、当時の元時代の江南禅林に流通していた禅会の画題に属している。また、
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