鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
25/688

― 13 ―― 13 ―②ジョルジョ・デ・キリコと精神分析再考─ショーペンハウアー、ニーチェ、フロイトの系譜から─研 究 者:早稲田大学 非常勤講師  長 尾   天1.父の夢ジョルジョ・デ・キリコ〔Giorgio de Chirico 1888-1978〕は『シュルレアリスム革命』誌第1号(1924年12月)に次のような夢の記述を寄稿している。全文引用してみよう。 私はとても優しい眼をした斜視の男と虚しく争っている。私が彼にしがみつく度に、彼はそっと腕を広げて抜け出してしまうのだが、この腕は途方もない、計り知れない力を持っている。まるで抑えの利かないレバー、絶大な力を持った機械のようであり、いくつもの小塔を備えた浮遊する要塞群のあちこちにある雑然とした作業場の上にそびえるこの二つのクレーンは、ノアの洪水以前の哺乳類の乳房のように重い。私はとても優しい眼差しをした斜視の男と虚しく争っている。どれだけ激しくしがみついても、その度に彼は微笑みながらなんとか腕を広げて、そっと抜け出してしまう。それは夢のなかに現れる私の父の姿である。だがよく見ると、生前、私の子ども時代に見ていた姿とは全く異なっている。だがそれはやはり父なのだ。その姿のあらわれ方には全体に何かひどく遠い44ものがある。それはおそらく父が生きていたときにも見えていたものではあるが、20年以上経った今、夢のなかで彼を見るときには、それがとても強い力で感じられるのである。 私が放棄44することで争いは終わる。私はあきらめる44444。それからイメージが混濁する。争いの間に私の近くを流れているのが予感された河(ポー河〔イタリア〕か、ピニオス河〔ギリシア〕)が暗闇に沈む。まるで雷雲が地上低く垂れ込めてきたかのようにイメージが混ざり合う。休止44〔intermezzo〕があった。その間にも多分私は夢を見続けていたのだろうが、再び夢がはっきりしたときに暗い幾つもの通りに沿って不穏な探索をしていたこと以外、何も思い出すことができない。私は素晴らしい形而上的な美しさを持った広場にいる。それは多分、フィレンツェのカヴール広場44(piazza)か、もしかしたらトリノの非常に美しい広場の一つか、あるいはそのどちらでもないのかもしれない。その片隅には柱廊が見え、その上には鎧戸を閉じた荘厳なバルコニーのあるアパルトマンがある。地平

元のページ  ../index.html#25

このブックを見る