― 238 ―― 238 ―㉒ 京都画壇の19世紀─幸野楳嶺私塾資料を中心に─研 究 者:京都芸術大学 非常勤講師 多田羅 多起子1.はじめに幸野楳嶺(1844-95)は、近代京都画壇を牽引した画家の一人である。円山派の人気絵師であった中島来章(1796-1871)の元で幼い頃から画の修養を積み、明治の初年には四条派の大御所であった塩川文麟(1808-77)門に移った楳嶺は、円山派・四条派双方の画法を身に付け、竹内栖鳳(1864-1942)ら次の世代へと継承した。また、久保田米僊(1852-1906)らと共に京都府画学校や京都青年絵画研究会、京都美術協会など新しい制度作りのために奔走した。近代京都の日本画へバトンを渡した教育者として、まさしく近世と近代をつなぐ画家である。本研究の目的は、次世代を担う画家たちを多く輩出した幸野楳嶺の私塾資料を通して、近世以前の伝統的画技をもって新たな時代へ臨んだ画家たちの動向、構想、絵画観の一端を明らかにすることにある。楳嶺の教育については、設立に関わった京都府画学校でのカリキュラムや運筆手本などの資料について、すでに廣田孝氏や松尾芳樹氏による研究の蓄積がある(注1)。また、私塾での教育についても、弟子たちの回想に加え、幸野豊一氏による『習画綱要』ほか楳嶺論稿の紹介や(注2)、塾での教育理念について岡﨑麻美氏の論考がある(注3)。本研究では、先行研究に加える形で、私塾内で参照されていた資料類を検証し、その後の保管・活用状況を含めて、幸野私塾が受け継ぎ引き渡した情報が次の世代に果たした機能を考える手がかりとしたい。2.楳嶺私塾資料・楳嶺私塾における教育9歳で中島来章に入門した楳嶺が初めて弟子をとったのは、安政6年(1859)、楳嶺16歳の時である(注4)。初期の画塾については詳細を知ることができないが、後述するように、今回調査した資料の中には安政、万延、文久、慶応の年記をもつ画稿や縮図が一定数含まれており、粉本類を含めてこれらの参考資料が塾内で用いられていた可能性がある。明治14年(1881)、設立に尽力したものの志半ばで京都府画学校を退いた楳嶺は、改めて私塾を開いた。後に楳嶺門下の四天王と称される都路華香(1870-1931)、菊池
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