― 239 ―― 239 ―・資料概要・塾内での整理作業芳文(1862-1918)、竹内栖鳳、谷口香嶠(1864-1915)、は明治13年(1880)から16年(1883)の間に相次いで楳嶺門をくぐっており、明治16年には70人を超える門下生が在籍していた(注5)。楳嶺は入門者に対して最初に手本を目の前で描いてみせ、習熟度を初等、中等、高等と三段階に分けて、各30の画題を選定していたという(注6)。習画手本は複数現存しており、その筆跡を見ると、学習者が手本を見れば筆順と筆運びを思い出すことができるよう、一筆ずつ明瞭に示していることがわかる。運筆のほか塾で奨励されていたのは、写生であり、古画の模写であった。竹内逸はこのような教育方針について「現代から考へれば目新しい教育ではなく、また六朝のむかし謝赫の卓論六法の繰返しにすぎないが、事實は、當時かうした組織立つた教育や、古畫研究及び寫生奨励は他塾にはなく、この楳嶺私塾だけが断然新時代の教育を實践していた」と述べている(注7)。古画研究と写生を奨励するという塾の方針を裏付けるように、塾内には大量の資料があり、塾生の利用に供されていた。ある時期以降は栖鳳、芳文、香嶠、華香が資料を分担して保管し、閲覧の窓口を任じていたという(注8)。現存する楳嶺私塾資料は各所に分蔵されており、現時点で冊子本13冊、一枚もの383 点を確認している。禅宗祖師の図像集である《仏祖図》(個人蔵)、屏風の下絵と見られる《厩図》(個人蔵)のほか、大きなまとまりとして、竹内栖鳳旧蔵資料一式(海の見える杜美術館、京都市美術館蔵)が現存する。前述の通り、栖鳳は芳文とともに、ある時期から「寫生本と模寫粉本類」を管理しており、その大半を自らの塾に引き継ぐ形で活用していたものと見られる。私塾資料であることを示すのは、「幸野所蔵」「幸野蔵」といった墨書であり、また、「幸野」「梅嶺」「幸野私塾」などの印である。資料のすべてが楳嶺の筆というわけではなく、楳嶺が所有していた過去の画家によるもの、弟子が作成したものも含まれる(注9)。所蔵印のうち「幸野私塾」印は、一枚ものの資料381点のうち322点におされている。さらに、竹内栖鳳の最初期の作品《芙蓉》(京都市美術館蔵)にも同じ印が確認されることから塾の公印のひとつとみられ、ある段階で塾内の資料に押されて整理されたと考えられる(注10)。栖鳳旧蔵の幸野私塾資料は、楳嶺私塾で保存されていた時期を含め、何度かの整理
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