― 240 ―― 240 ―作業を経ている。現在資料に付されている貼札の中には「幸野私塾」印あるいは「幸野蔵」の文字を覆うように貼られているものが多いことから、栖鳳の管理に移った後の整理作業で付されたと考えられる。〔図1〕を例にあげれば、まず、楳嶺私塾時代に「楠公神影/戊辰十二月草稿/幸野所蔵」と書かれた後、「幸野私塾」印がおされ、時間をおいて栖鳳の塾で「第四号/五枚之内」という札が貼られた上で、本朝というジャンルを示す「本」の文字が加えられたのであろう。これまで調査した資料のうち、まず冊帖では、13冊のうち10冊に貼札があり、表紙の地の部分にわたるように「冊本」と朱文字で書かれていた。貼られた紙の下に「幸野所蔵」あるいは「安政」と読めるような文字が透けて見える。次に一枚ものを確認すると、その大半に朱で甲、乙、丙あるいは本、倭、唐、神、花、鳥、獣、魚といったジャンル分けを示す一字が付されている〔表1〕。ジャンルの区分けには一貫性が見られないが、これは整理作業が複数回にわたり、名付け方が変更されているためと見られる。また、「第○号○枚之内」という番号がほぼすべての資料につけられている。この番号についても、二度消されて新しい番号が付されるなど、複数回にわたる作業において基準が変わったことがわかる。加えて、このような番号表記から、現段階で把握しているよりもさらに多くの資料が存在していたことがうかがわれる。数度にわたる塾内での整理は、これらの資料が死蔵されず、楳嶺の塾においても、引き継がれた栖鳳の塾においても活用されていたことを示す。粉本の画題のジャンルは、仏画や道釈画、和漢の故事人物が目立つ。明治20年代以降、京都画壇において歴史画の流行が見られたことを踏まえると、画の構成上これらの図様が活用されたであろうことは容易に想像がつく(注11)。また、名所絵や花鳥画、あるいは立雛など季節を彩る年中行事や、富士、高砂など吉祥の画題は、明治以前、以後を問わず、日常の掛物として人気を保っていたことであろう(注12)。また、明治19年(1886)の京都青年絵画研究会で与えられた画題が「夏山瀑布」「蓮塘浴鷺」「菊花雀」「南朝朝臣事跡」「二十四孝」であったこと、明治24年(1891)にやはり若手主体で行われた京都私立青年絵画共進会においても、与えられた画題が「寄花故事」「月」「山寺鐘声」のいずれか(一葉は画題指定、一葉は随意で一人二葉まで)であったことを考えると、明治中期の若手画家にとって、これらの伝統的な画題は決して過去のものではないことがわかる(注13)。楳嶺による花鳥の写生、あるいは落款印章を入れる位置の指定を含めた定番の画題の構成を示す粉本は、次の世代の画家たちにも十分に有用性をもっていたと言える。
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