鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 241 ―― 241 ―・『楳嶺遺墨』収録図版との関係栖鳳をはじめ高名な弟子たちを生み出した側として語られがちな楳嶺であるが、その画名を歴史に埋もれさせなかったのは、楳嶺没後に行われた弟子たちによる顕彰活動によるところが大きい。楳嶺の没後、翌年、3年、10年、20年、30年、40年と、区切りの度にその弟子達が中心となって展示や出版、記念碑の建立などを行っている〔表2〕。このような周年行事が楳嶺の名を留め、その後の美術史研究においても画業全体を見渡すための基礎となった。現在の楳嶺研究の基盤となっている『楳嶺遺墨』と題された遺作集は、それら顕彰活動の一環として、没後40年を期に栖鳳によって刊行された。『楳嶺遺墨』には、写生、画稿、縮図類から25点が収録されているが、今回の調査によって、うち14点を栖鳳旧蔵の楳嶺私塾資料と照合することができた。例えば、中表紙に配される猫のスケッチは、万延元年(1860)の写生帖《写生 乾》(京都市美術館所蔵)から採用されている〔図2、3〕。なかでも《能楽図》〔図4〕の成り立ちは興味深い。楳嶺は能楽への造詣が深く、写生帖には舞姿や面が見開きに数図ずつおさめられる形で多数のスケッチが残されている〔図5〕。『楳嶺遺墨』に掲載された《能楽図》はこれらの写生図から、それぞれ別頁に描かれた7図を抽出して再構成している。7図を選択しレイアウトを指定したのは、本書の編集を担当した竹内逸であろうか。あるいは、編成上「代表的作品の複製に重點を置く遺墨集よりも(中略)楳嶺先生の畫家としての生活記録といふ風なものを希望した」(注14)という発行者・栖鳳の指示という可能性もある。確かめることはできないが、中表紙に何気ないスケッチから採った猫を据えていることとあわせて、これらの挿図採用からは、楳嶺資料に対する深い想いを読み取ることができる。3.若き日の楳嶺・先師との関わり楳嶺は嘉永5年(1852)の入門以来20年、来章のもとで作画をしていた。先に述べたとおり、16歳のときにはすでに門人をとり自らの画塾も開いているが、同時に来章の画作を助けていた。文久元年(1861)から明治2年(1869)までの9年にわたり代作や代稿、助筆を行っていたことを『中嶌先生鑒證代毫記』と題した自筆の記録で告白している(注15)。今回調査した資料のなかから、来章との関係を示す興味深い作品を2点見出すことができた。1点は、画面左上に「先師子慶先生稿写」と書き込まれた《西園雅集図》(海の見

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