鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 242 ―― 242 ―・画稿類える杜美術館所蔵)である〔図6〕。子慶は中島来章の号であり、来章に対して「先師」と述べていることから、書き込みについては楳嶺が来章の元を離れた明治4年(1871)以降であることがわかる。画面下方でお茶などの準備がされ、画面中央では2箇所で宴が開かれている。その上方には、壁に筆で何か書きつける人物が描かれ、近づいて見ると文字は「西園雅集」であることがわかる。もう1点は、慶應元年(1865)の年記をもつ《圓通大士尊像》(海の見える杜美術館所蔵)である。画面左上には「慶應乙丑初冬爰師命草稿之」とあり、師匠の命を受けて草稿を起こしたと見られる。岩の上に座し、両手で片膝を抱えた観音は遠くを見遣るように描かれ、背後に柳の枝が入った花瓶が配される。先に触れた『中嶌先生鑒證代毫記』の当該時期には、「滝見観音図 同(筆者注:慶応乙丑)十月下旬 同(筆者注:尺五寸巾)同(筆者注:直幅)」という項が確認され、この記録と《圓通大士尊像》が一致する可能性がある。10代から20代の楳嶺によると思われる画稿や写生類は、この2点を含め30点ほど確認された。写生や縮写を主に収録した冊本はこれまでにも紹介されており(注16)、若き楳嶺の観察眼と達者な筆技を示している。一枚ものの画稿類は、塾内で弟子が楳嶺の草稿や下図を写した可能性もあり、図中に楳嶺の名前があるもの、名前はないが楳嶺の筆致を示すものを含め、今後の精査が必要である。いずれにしても、これらは若き日の楳嶺の制作実態を示す貴重な資料であり、今後の楳嶺研究にとって大きな意味をもつ。花鳥画の例としては、裏面に「梶鵲之画/丙寅五月 艸稿/幸野所蔵」の書き付けのある画稿がある〔図7〕。丙寅すなわち慶応2年(1866)は、楳嶺23歳、来章の代筆を170点手掛けたという年にあたる。左を向きまっすぐ首を伸ばす鵲の姿は定型ではあるが、腿の筋肉や脚部から枝につかまる爪先まで鳥類写生の成果がよくあらわれている。梶の葉は大小や前後関係を工夫し、位置取りに修正を重ねていることがわかる。和漢の故事人物画の草稿も複数確認される。花鳥に関する事績で知られる楳嶺であるが、写生や画稿では優れた人物表現が目を引く(注17)。裏面に「壬戌仲冬艸稿/幸野所蔵/橘中仙」と書き付けのある画稿〔図8〕には、画面下部全体を使い大きく描かれた橘の実の中に碁を打つ二人の仙人がいる。手前に描かれた通常の大きさの橘の枝と、仙人の入った実を含む一枝の構成を練り、墨線と代赭の線で何度か修正を加えている(注18)。画面左上には、橘中之楽を解説する賛が書き留められ、囲碁や将棋

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