鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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注⑴ 廣田孝「美術工芸学校、運筆手本の研究」『竹内栖鳳 近代日本画の源流』(思文閣出版、2000年)ほか、松尾芳樹『京の絵手本〈上〉花鳥篇』『京の絵手本〈下〉野菜・動物・魚介 習画帖篇』― 243 ―― 243 ―の愛好家からの発注であろうか、需めに応じて描いたことを記している。文久壬戌、すなわち文久2年(1862)、楳嶺19歳のときの草稿であるが、十分に一幅を仕上げる腕を持っていたことが伝わる資料である。これらの草稿類に共通する安定した構成と冴えた筆遣いは、17歳で円山正阿弥展観に出品した《猿ヶ島復讐図》を当時の京都画壇に好評を博し、鈴木百年が激賞したというエピソード(注19)を裏付けるものである。4.おわりに次の世代のために楳嶺が行った様々な活動のなかで、教育上最大の意義をもつのは、流派を超えて学ぶシステムの構築を試みたことにあるだろう。そこでは近代的なカリキュラムによって、誰もがわかりやすく取り組むことのできる運筆手本などの教材が提供された。他方で私塾における教育方針については、フェノロサの思想をいち早く取り入れようとした新奇性と、特に基礎段階において発揮された厳格さがよく知られていた。今回の調査によって、基礎を身に付け次の段階へと進んだ門人たちが参照した、大量の資料の内容が明らかになった。資料の内容は近世以前の画派が使用していたものであるが(注20)、それらは明治時代以降も不要とはならず、近世以前から続く身近な注文に応じるため、あるいは歴史画など新しい日本画を構成する上の資料としても用を為すものであった。資料が栖鳳に引き継がれた後、ただ保存されていただけではなく、再整理が行われて活用されていたことはその証左になるであろう。近世から近代へという大きな時代の変化を迎えた京都画壇にとって、明治を迎える前から蓄積されていた画の基盤はその後も有用に機能し続けたことを、私塾資料から示すことができた。また、副産物として、10代から20代にかけての楳嶺の作画活動を知ることのできる資料を見出すことができた。これらの資料は、今後、画家としての楳嶺像を更新する材料にもなりえるだろう。私塾資料を通して楳嶺の画嚢をさぐる意義は、ひとり彼の画業を知るにとどまらない。塾生に共有され、その後資料を引き継いだ栖鳳の世代の基礎となっている。次の時代に新しい花を咲かせた多くの弟子たちに通底する意識を読み解く上でも、今後も近世的課題と近代的課題の両面から検証を進めていきたい。

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