鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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⑵ 幸野豊一解説「幸野楳嶺論稿」『幸野楳嶺:幸野楳嶺没後100年記念出版』(芸艸堂、1995年)⑶ 岡﨑麻美「幸野楳嶺の絵画理念「十格」とフェノロサ『美術真説』その作画と教育」(『美術史』― 244 ―― 244 ―⑷ 楳嶺による自伝「香雲春秋」による(美澄政博「幸野楳嶺の業績について」(『美術研究』62号、⑸ 幸野西湖「楳嶺伝」『楳嶺遺墨』(竹内栖鳳、1940年)⑹ 前掲注⑸および竹内逸「楳嶺先生を想ふ」『楳嶺遺墨』(竹内栖鳳、1940年)。⑺ 前掲注⑹竹内逸による論考。「楳嶺私塾のみ」という評価を鵜呑みにはできないが、塾の特色⑻ 前掲注⑸の「参考資料の移譲」の項に詳細が述べられている。「楳嶺の家には、和漢の書籍が相當澤山に所蔵され、又楳嶺の寫生画は夥しい数に上り、又古画研究の餘に成つた各種の粉本類、或は繪巻物の模本なども豊富であつた。楳嶺は平素から、是等の蔵品を門下の研究に資するため開放し、いつでも閲覧を許してゐたが、社會的な地位も定まり、身邊次第に繁忙を加へるやうになると、自からこれを處理することが面倒になり、又一々師匠の手を煩はすのでは、門人達も定めし心苦しいだろうと察して、蔵品のすべてを画塾凌雪會に移譲して、門人達の自由に任せる事とした。この結果寫生本と模寫粉本類を菊池芳文、竹内栖鳳の両人に、絵巻物の一切を都路華香に、書籍全部を谷口香嶠にそれぞれ分擔保管させ、門人中披見希望者は、各分擔者に就いて借覧せしめる事になつた。」(『楳嶺遺墨』11頁)⑼ 一例として、龍仙(駒井龍仙か)の署名が入り、明治16年(1883)に作成されたことがわかる⑽ 「幸野私塾」印は、塾内の文献にも押されていたと考えられ、楳嶺の自筆資料である『中嶌先生鑒證代毫記』(京都工芸繊維大学附属図書館蔵)のほか、五十嵐公一氏によって紹介された『如雲社諸先生名録』(同館蔵)にも同印が押されている(五十嵐公一「第三回京都博覧会での如雲社」『芸術文化研究』20号、2016年)。⑾ 歴史画の流行については、藤本真名美「谷口香嶠と京都の歴史画」(『京都画壇の明治』京都市⑿ 前掲注⑽で触れた『中嶌先生鑒證代毫記』は楳嶺自筆の記録であり、総計289点の来章作品の助筆、代毫、代稿に関わったことを告白している。これらの制作記録は、一方で幕末から明治にかけての画の受注の実態を示す資料でもある。詳細は別稿で報告した(拙稿「近代京都画壇における世代交代について―土居次義氏旧蔵資料を手掛かりに―」(『美術研究』428号、2019年)。⒀ 明治19年(1886)に中村楼で行われたフェノロサの講演に刺激を受け、3ヶ月後に開催された若手主体の展覧会。結果的に一度きりの展覧会となったが、春秋二回の開催を想定していた。明治24年(1891)に行われた京都私立青年絵画共進会とあわせ、これらの展覧会については、神崎憲一『京都に於ける日本画史』(京都精版印刷社、1929年)および、島田康寬『京都の日本画 近代の揺籃』(京都新聞社、1991年)を参照した。⒁ 竹内栖鳳「編集豫録」『楳嶺遺墨』(竹内栖鳳、1940年)⒂ 前掲注⑿⒃ 『栖鳳の学びしもの竹内栖鳳のすべて:資料集Vol.3』(王舎城美術寳物館、1989年)に9冊が(1995年、日貿出版社)ほか。157冊、2004年)1937年)所収)であったことは間違いないであろう。「音楽ノ器数種」という和楽器の図がある。学校歴史博物館、2018年)を参照されたい。紹介されている。

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